蓑虫靴店
2017年 05月 19日
髙木敏克
蓑虫靴店は夜にならないと見えない。その風変わりなは靴屋は真っ暗な崖に張り付いて建っていたが、暗い夜道にそれを見ると店は崖の中にめり込んでいて、まるで洞窟のように見えた。靴屋の親父はさしずめ冬眠中の熊と言ったところだ。店先には絶えず木の葉が落ちてきていた。掃いてもはいても雪のように降ってくる木の葉を親父は掃除しようとはしなかった。軒にもその下の小さく張り出したテントにも渇いた枯れ葉が降り積もり、何か巨大な生き物がその下に隠れていて、蓑虫靴店はそのうちもっこりと立ち上がるのではないかという印象を与えた。
店先に立ち止まると真っ暗な崖の中に明るい窓が開き、その光の部屋の中で靴屋の親父はごそごそと仕事をしていた。時々立ち上がり、こちらを伺っているように見えたが、人目を気にしているわけではなかった。ただ風の具合やら空模様が気になるらしく、時々顔を出して外気を感じとるだけなのだ。恐らく天候は皮職人にとっては大事なことなのだ。しなり具合やら伸び具合は湿度によって微妙に違ってくるに違いなかった。そして何よりも靴職人は自分の体を気候にあわせておく必要があるにちがいない。靴屋の肉体は自然と不自然の中間にあり湿り気やら体温を絶えず死んだ皮に与えていかなければならなかったからだ。
寒い日にはオレンジ色の室内はまるで暖炉のように見えた。真っ黒な靴職人のシルエットは炎の中で燃えているように見えた。親父が立ち上がると得体の知れない怒りが谷一面に立ち込めるような不思議な緊張感があった。
蓑虫靴店は夜汽車の窓からも見えた。帰宅の際、僕はその辺りまで来ると通勤列車の入り口の窓に張り付いて目を凝らした。列車が港を通りすぎて崖に張り付き海岸線ぎりぎりを走り始める辺りで、一瞬だが蓑虫靴店は現れる。僕はその一瞬を待っているだけで胸がときめいた。真っ暗な闇の崖の中にその光の部屋は一瞬現れる。一瞬にして永遠の残像が僕の脳裏に焼きつこうとする。蓑虫靴店は崖の中の宝石箱のように絶対的な王国の姿を僕に射し示そうとしていた。
僕には蓑虫靴店が王国の入口のように思えて仕方がなかった。その王国に入るには簡単な方法がある。蓑虫靴店で特別な靴を注文してクライアントになればいいのだ。そう思って僕は坂の途中の斜めの蓑虫靴店に入った。革の匂いが昔好きだった女の背中の匂いに似ていてこの店が気に入った。靴屋のくせにサンダルをはいている親父に対して、僕は好きなように僕に合う靴を作ってくださいといった。親父は頷いて僕を椅子に座らせたり立たせたりしながら採寸した。その間中、僕には店の奥のほうが気になって仕方がなかった。
店の奥にはたくさんの靴が並んでいたが、それは修理を待つ靴には見えなかった。大勢の人がそこで靴を脱いで階段を上り、何かの集会をしているに違いないと思えた。
― この上にはたくさんの人が住んでいるのですか。たくさんの靴が並んでいますね。
― そうだね。直しようのない靴ばかりだ。
― じゃあ、捨てるしかないのですか。
― 修理がすむまで上にあがって待ってもらっているだけだよ。ここは靴屋だから。
― じゃあ、捨てちゃあだめなんですね。
― そうだよ。また帰ってくるからねえ。
― へえ、でも、仕事を急がないと上で何時までも待たされることになるのですか。
― いやそうでもない。新しい靴を作って上にあがった客は別に降りてこなくてもいいのだよ。放っておいても入口に帰ってくるからね。
― じゃあ、靴の修理を待つ人は、靴がないから入口に戻れないじゃないですか。
― いや、もう靴がいらなくなって帰らなくなっただけだよ。だけど、帰って待つしかないだろう、ここは靴屋だから、二階は真っ暗なんだ。