高木敏克
2024-03-28T08:03:54+09:00
glykeria
高木敏克のブログです。
Excite Blog
会下山
http://glykeria.exblog.jp/33293013/
2024-03-28T08:00:02+09:00
2024-03-28T08:03:54+09:00
2024-03-28T08:02:05+09:00
glykeria
エッセイ
歴史を埋め立てて出来るのが新天地新開地新世界新大陸とかいう名前であるが、何故か荒野の風が吹いている。
空っぽなのだ。カフカの流刑地に似た空が広がっている。
湊川も埋められて跡形もない。途中から迂回させられトンネルになり、新湊川と改名して会下山(えげやま)という処刑の匂いのする明るくて暗い山に潜っている。それでも花見の穴場として近隣の住民には人気スポットなのだ。面白いのは新湊川の下流からトンネルを覗きこみ、一気に登山して山頂を目指すことだ。そぞろ歩きではなく登山だと心して。僕は自分の好きなものを人には嫌いだと言って欲しい癖があり独占欲が強いのだ。つまり一人登山家らしい性格で自分のことだけ語る人が好きだ。
そこで,今日は歩いて会下山公園に行っていましたが、大人数のインド人のグループしかいませんでした。話しかけたらオジサンには無視されたので、若いお姉様方に、無視された!無視された!といいふらしました。オジサンは寂しくなったみたいで隅っこに行ってしまった。まだ、蕾は硬く山桜が咲いているだけ。疲れるし腹は減るし急に寒くなるし本日は良い事なし。
くまなく散策する性格の私は公園の北端に神戸電気鉄道に強制労働させられた朝鮮労働者の像を見つけましたが、あいにく携帯の電池切れで写真無し。帰りはバスで帰りました。神戸は大概疲れる町です。
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六甲
http://glykeria.exblog.jp/33284080/
2024-03-16T08:17:00+09:00
2024-03-16T08:24:15+09:00
2024-03-16T08:17:20+09:00
glykeria
詩
耳鳴りのする高度でヒルクライマーたちが蝶々を追っている雷雲が追ってくる山肌を包むように
包囲しようとして包囲されていたのだたしかに山は鳴っている
解放区なんて包囲されている証拠だ斜面は海に突っ込んでいるどこに行こうというのかこれから
山頂はメビウスの輪サンセットはサンライズに裏返る雲上は列島
雲海の雷鳴は重低音 裏返る瞬間に雷雲につかまったら山上のゲームはホワイトアウトだ]]>
海の音
http://glykeria.exblog.jp/33281336/
2024-03-12T14:56:00+09:00
2024-03-16T10:49:57+09:00
2024-03-12T14:56:15+09:00
glykeria
小説
灰色の海からは無数の光の針が首を出し、何かの恨みでもはらすかのように踊り回っていた。雲が空を覆っていた。風の中で耳は鳴り続けていた。光は風に吹き飛ばされたみたいで、何処にもなかった。海岸線は塩分の強い重い霧を巻き上げていた。その中を自転車乗りの僕は鮮やかなネオン・イエローのウィンド・ブレーカーを旗のように鳴らしながら走り抜けていった。その斜め後ろから一羽の海鳥が彼を追っていった。
鳥は、白くもなく黒くもなく、影のように薄く、彼の右肩上空に止まっているように見えた。だが、時速は軽く60キロは越えていたはずだ。自転車は追い風に乗っていた。海鳥は自転車の巻風に乗っていた。海は超低音に満ちていた。その音は、海底から自転車に伝わり、彼の骨を震わせてから耳を震わせていた。自転車乗りの僕は今日も風切りの術を試すため、一人自転車を走らせていた。 風景は次から次へと現れた。世界の全てを身体で感じることは不可能かも知れないが、こうしていると、全ての感覚で世界を感じることが出来る。すると世界はシュミレーション・ゲームのように開いてゆくのだ。 自転車は現実の世界を走っているとは思えなかった。ただ、あるのかないのか解らない茫漠とした風景の中を走っていた。スピードを上げてゆくと風景はチューブ状になっていった。風景が現実のものなのかどうなのか、もう確かめようがないように思えた。確かなものは風だけだ。触れることのできるのは風だけだった。聞こえてくるのは耳を切る風の音だけだった。風景は見る前にどんどん消えていった。だからそこに残るのは現実ではなく、単なる残像としてのイマジネーションであり、残像は流れるチューブにしか見えなかった。 ジリジリと鳴り続ける自転車のディレラーの音は何とも言えない快感であった。脚力はこの時間の快感によって鍛えられたのだ。今はもう快感に任せて漕ぎまくるだけだった。彼のペタリングは完全な円運動で、例えペダルがなくても力のベクトルは円軌道から反れることがなかった。 切迫した海峡には時間の風が吹いていた。風は風景をことごとく無視するかのように空に舞い上げていた。時間以外に確かなものは何も存在しなかった。 確かな風景というものは存在しなかった。総ての風景は記憶にすぎなかった。風景は単なる記憶の断片なのだ。だから風に舞う軽さだ。 時間の風の流れる海峡にはさらに超低音が満ちていて、風は古代から休まずに吹いていて、様々な光景を上空高く舞い上げていた。
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女性ドライバー
http://glykeria.exblog.jp/33281122/
2024-03-12T08:33:00+09:00
2024-03-13T06:38:54+09:00
2024-03-12T08:33:09+09:00
glykeria
小説
あれは、日曜日の深夜、新しい女友だちは明日は月曜なので寝不足になるから後ろの座席でぐっすり眠りたいと言い出したので、真っ暗な峠を越えて有料道路の入口まで、眠気をこらえてのドライブとなった。夏草が道を狭くし、おまけに峠を覆う雑木の小枝は夏の間にすっかり道を覆い、殆どビームを付けっぱなしの運転となった。対向車もハイライトで接近して、中にはライトを落とさない暴走車も有った。なるほど聞いていた下り坂は山砂も散らばりスリップしそうな危険な綴れ織だった。その難所が終わるところが最も危険なのだ。やっと平地についたと思った途端に、それがT字路であることに気付く。それからは漁船の光しか見えない闇の中を蛇行しながら遠近法のない闇の中のドライブとなった。蛇行が激しくなるこんな悪路では誰でもは酔いはじめる。後の席の女友達は既に酔っている。「ごめんなさい。ねえ、ごめんなさい」と小さなかすれ声で俺を呼び始めた。「もう少し待って。こんな道に慌てて止めたら危険だよ。どこか、ちゃんとした止めるとこ探すから」「ねえ、おなかはもう撫でてくれないの。撫でてくれたら治ると思う」風を入れるために助手席の窓をあけた。風がヒューヒュー鳴って、ルーフ・キャリアが風の歌を歌い始めた。随分と悲しい歌だった。僕は運転席のウィンドウも開けて、ついでにサンルーフのウィンドウも全開にして夜風の中を走った。速いのは車なのか風なのかわからなくなってきた。直線道路になったところで後の座席から首にしがみつく彼女の両腕が生暖かい。バックミラーに見えるのは酔いから覚めた彼女の顔で、まるで生首だ。マフラーで首を絞められるような柔らかい彼女の腕に産毛が立っている!自分の罪をバックミラーに見つけて飛び掛ってきたらしい。「わたしなのよ!この子のお母さんをひき殺したのは」その昔のある年の秋口の今頃、女性ドライバーが子ずれの母猿を轢き殺し、自分も磯辺の岩場に激突して死亡したらしい。その事故の話は同業の保険代理店を訪ねた時に創業者の彼の爺さんから聞いたのだ。老人はとんでもないアル中で昼間から吞んでいて、「警察署にも飲み仲間がいるからお互い様なんだ」と話をはじめたのだ。こちらはというと保険業の経費でガソリン代も食事代もホテル代も出るので新しい彼女と何回目かのドライブしているのだ。先ほどの爺さんの昔話によると、どうも子猿だけが生き残ったらしい。ところが、猿は成長すると亡くなった女性と同じ顔になったらしい。そして、今頃になって生首がバックミラーからこちらに飛び出して当時の事故を再現しようとしているわけだ。実際にはバックミラーではなく、その上のサンルーフから母猿の生首が飛び込んできた訳だが、飛び起きた彼女の全身の産毛が波立つのも当然といえば当然の話だ。
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メイカップ
http://glykeria.exblog.jp/33280894/
2024-03-11T22:29:00+09:00
2024-03-11T22:29:55+09:00
2024-03-11T22:29:55+09:00
glykeria
詩
鏡の中を明るいパステルで塗っているのは、真っ暗な瞳孔の中から世界を塗り尽くそうとするもう一人の君だけれど、君自身はその暗闇の中から描かれた一つの夢なのかもしれない。
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暗室の天窓から見える風景
http://glykeria.exblog.jp/33279273/
2024-03-09T21:04:00+09:00
2024-03-09T21:04:26+09:00
2024-03-09T21:04:26+09:00
glykeria
小説
ゆるやかな風は海岸線を白く消しさるように吹いた。カラフルなロードレーサーの一列が消えかけた海岸線を引きなおすように走っていった。そこは須磨海岸の塩屋に差し掛かるあたり、海岸線は海峡と崖に挟まれて、風の通り道になっていた。最後のロードレーサーは風のように軽く振りむいて崖の上を見た。そのあたりは地軸が少し傾いていて自転車は微妙に揺れていた。そのことは感受性の強い自転車乗りが良く感じることができた。崖の横では磁場ができていて、そう感じるのかもしれない。その傾き具合を確かめるためには崖の上に登って海峡の海を見下ろしてみればよい。海面も少し傾いて見えるのが分かるはずだ。さらに大阪湾に目を移して、太平洋に抜ける紀伊水道に広がる水平線を見ると遠くの船は傾いた海から水平線に消えてゆく。その手前では逆光を浴びた無数の船が黒い影になって銀色の海に浮かんでいる。それもしばらくの間だ。夜になると海は消えてゆき、すべての船は闇に浮かぶ船になるだろう。 白い砂がアスファルトの割れ目から吹き出していた。赤くて葉の厚い海岸植物が地上のあちこちに茂っていた。砂から照り返した逆光で葉は血の色をしていた。JR塩屋駅から国道に出て東にしばらく行くと山陽電鉄の小さな踏切がある。このあたり、海岸には山が切迫していて並行するJRと山陽電鉄が国道2号線に折り重なるようにして走っている。見上げると崖に張り付くように洋風の家が点在しているが、そこには綴れ織りの坂道しか通じていない。JRをまたぐ小さな踏切はその坂道に通じている。風変わりで不便な住宅を建てるのは何種類かの特殊な職業の人間に限られている。神戸市内に店舗に自動車で通勤できる経営者、働かなくても良い資産家、そして僕の祖父のようにめったに帰宅しない船乗りなどである。僕は風の強いその崖の上の家に生まれた。そこに住んでいると何も感じないが、はじめてそこに来る人はこんな風にいった。「丘の上の家だと思って車で来ましたが、あの坂道は普通の坂じゃない。あの車の馬力じゃとても登れませんよ。今度からは登山靴をはいて電車で来ますよ」 僕の家系は海洋民族であると同時に山岳民族であるような、恐らくは瀬戸内を支配していた水軍である。祖母や母の軽々と坂道を歩くさまからは山賊か海賊としか思えないような足腰の強さが感じられた。当然、僕も足腰の強い体躯を引き継いだスポーツマンタイプだ。人を寄せ付けない山賊か海賊の住処に住んで僕は満足していた。 崖の上に家を建てた祖父の顔を僕は写真でしか見たことがない。その顔はまつ毛が長く目はなんだかアイシャドウをつけたみたいだ。しかも鼻の下に八の字のひげを生やしていた。僕が会えなかったのは祖父が船乗りで海難事故で死んだからだ。僕はしきりに祖父のことを父に聞いてみた。「お父さんだっておじいさんにはほとんどあったことがない。おじいさんは船乗りだからほとんど家に帰ってきたことがない」父は慰めるつもりでそう言ったのだと思うが、ほとんど会ったことがない存在をあたかも半神でもあるように語った。一度も会ったことのない僕にとっては神そのものの存在だった。 僕の父も船会社に勤めていたが、丘に上がっても海を見ていた。海峡を渡る船を堅い表紙のノートに記録し、時には写真を撮っていた。それが仕事なのか、趣味なのか僕には分らなかった。一つ言えることは、祖父は神に近い存在だが、母の言っていた通り父は丘に上がったカッパにすぎない身近な存在だった。僕の家系には船乗りの血が流れているのだと思う。家で死んだ男はいない。すべての男は水平線のはるかかなたで死んだ。残された女性たちは華道茶道の教室を開いたり、和楽器の教室を開いたりして、生計を立てているように見えたが、実は船乗りは意外と金を残すもので、それは生きているより死んだほうがよく残るのだと祖母から聞いたことがある。それを言った時の祖母の笑顔はいまだに忘れることができない。僕の中に女性不信というものがあるとしたら、恐らくその笑顔が原因だ。 崖の上の僕の家には屋根裏部屋があり、その部屋は少年時代の僕にとってはちょっとした自慢だった。その部屋は祖父が写真の現像のために使う暗室でもあったが、小さな天文台でもあった。やってきた友達はその部屋のことを海賊の部屋みたいだと言ったが、本当に海賊だったら良いのになあと当時の僕は思っていた。というのも、屋根裏部屋には小さな天窓があり、そこから天体望遠鏡で闇夜の中に星を探すこともできた。友達はそれを大砲を海に向かって打つための窓だろうと勝手にいっていた。僕は否定も肯定もしないでいた。人がいろいろ想像する様子はたまらなく好きだからだ・そのことを父に話したら、父は笑いながら言った。「天窓から大砲を撃ったら、爆風でこの家は粉々になって消えてしまう。物事には作用と反作用というものがある。物事は必ず反対側からも見てから判断しなければならない」 その部屋に僕が入るにあたっては、母親からは次のような掟が言い渡されていた。まず、決して友達を入れないこと。第二の掟は天窓を決して触ってはならないということ。これは安全上の問題だ。僕はこの部屋で何度か怪我をしているし、ガラスを割ったことがある。第三の掟は夜になると暗室の電気は消さなくてはならないということ。。 すでに最初の掟は破られていた。何度か友達を連れ込んで昼間から天体望遠鏡をのぞきこんでいたが、青空しか見えない望遠鏡は役に立たなかった。窓のない暗室からは海の風景も見えなかった。空に向かって大砲を撃ち、それがうまく明石海峡を移動している敵艦に命中するという妄想を友達とするしかなかった。友達が天窓より何よりも興味を示したのは、祖父がヨーロッパから持ち帰ったヌード写真集であり、確かにそれは星を見るより勉強になった。 第二の掟も破られていた。何としても天窓から外に出たい僕は天窓のガラスをスライドさせる方法を知っていた。ガラスは分厚くて、たとえ海鳥がそこにぶち当たったとしてもビクともしないことは分かっていた。もし、第二の掟と第三の掟を同時に破ったらどうなるかは、そのときには想像できなかった。まだ破られたことのない第三の掟は望遠鏡のための掟だと思っていた。暗くしないと星が見えにくいからだ。しかし、夜に天体観測するためにはその部屋に入らなければならない。でも、明かりも点けずにどのようにして部屋の中に入れるのか。しかも、その真っ暗な闇の中でどのようにして写真の現像や焼き付けができるのか、その後も解けない謎のままだった。「おかあちゃん。電気消したら、誰がいるのかわらへんし、何もできへんやんか」「おじいちゃんはねえ。電気をつけたらいなくなるのよ。真っ暗だったら、そこにいるということなの」「なんで、いるってわかるん。どうやって確かめるん」 祖父というのはインド航路の船員で、あちこちで買い求めたガラクタをその部屋に隠していたのだ。夜になると、祖父は闇の中から現われて、そこで生きることも死ぬことも出来ずに今でも暗闇で作業をしているのかもしれない。しかし、明るいうちに祖父のいない部屋に忍び込むのは、外で遊ぶより楽しい探検であった。秘密があるからだ。中に入ると天窓から光が降ってきて長い時間をためていた。まず、僕を出迎えたのは真っ白なオウムの剥製で、今にも大声を出しそうなクチバシが少し開いていた。剥製は大きな木箱の上に於いてあったが、その木箱の中にその剥製が入っていたということだ。もしそうだとしたら、大きすぎる。もっと大きな剥製が入っていたのかもしれないと思った。「おかあちゃん、これはおじいちゃんの棺桶と違うの」と聞いたら、母がひどい声で、気が狂った九官鳥のように怒った。それ以来、その大きな箱は謎の塊だった次に現れるのは動物園にはいない大きな角をもった鹿だか山羊だかわからない動物の首から上の剥製で頭の毛が禿げかけていた。部屋の壁の前には他にも大きな木箱が積み上げられていたが、最初に興味をひかれるのは重くて動きそうにもない二つの本棚だった。 本棚のガラス戸を開くと、白い粉になったほこりがゆっくりと漂いはじめ、宇宙の星くずに見えた。 本棚の奥にはハッセルブラッドのカメラが隠れていた。それがまた神秘のかたまりであった。それが出てくると屋根裏部屋全体の時間を支配し始めた。そのカメラの暗箱にも天窓があり、天窓に風景が映る仕組みになっていた。そこには左右が逆になった不思議な風景が現れた。「この風景は本当の風景だろうか、それとも、スリガラスに映るだけの影絵だろうか」と僕は父に聞いたことがある。父の回答は単純だった。「すりガラスの裏から覗いている風景だと思えば、本当の風景だけど、すりガラスに映っている風景だと思えば嘘の世界だよ」 それから僕は半透明で裏から覗ける鏡について考えた。表から鏡に映った姿を見る人は虚像を見ているが、裏から覗いている人は実像を見ているのだろうか。両方とも実像だということもできるし、両方とも虚像だということができる。つまり、世界は実像だと言えると同時に虚像ともいえる。生きることは実体だということもできるが虚体だということもできる。つまり、人間は生きているということもできるが死んでいるということもできる。僕はそう思い始めていた。実体はすぐに消えるが虚体は時間を得て生き続ける。それがカメラというものだ。つまりカメラは死なない虚体を作り出す器械なのだ。 そう思いながら、僕はカメラを触り続けた。そして、今も同じカメラを手に取ることができる。その部屋は今も何も変わっていない。本棚の下のほうには引き出しがあり、そこには古いライカ・カメラが横たわっていた。古い年代のバルナック・カメラでレンズがスクリュウ式で脱着できるものであった。カメラが横たわっている横には厚紙の箱があり、その中にはリバーサルフィルムがスライドにマウントされた形で詰まっていた。僕はそのスライド・フィルムを1枚ずつ天窓に翳して眺めた。さらにその下には硝子板が数十枚重なっていて、天窓に翳すと古い銀板写真のネガであった。暗転した世界が広がっていたが、どの銀板も家族や親戚の記念写真らしいが誰が誰なのかはさっぱり分からなかった。 やがて、時を忘れると時間は甦る。時計を見ると時間止まる。カメラは宇宙全体の時間を支配し始めて、夜の闇がやってくる。本棚の上にはスライド映写機が少し顔をのぞかせていたが。子供にはそれを引き下ろすことは不可能だった。本棚の中からは何やら横文字の本やら袋やらが出てきた。僕は様々な箱とともにその袋を片っ端に開いては中から出てきたものを元に戻す作業に明け暮れていた。母はそんな僕の姿を見て空き巣泥棒だといった。確かに、と僕は思った。 その様子を肩ごしにずっと見つめている視線があった。背後のオウムは羽が乾き切っていたが、そのクチバシだけがペン先のように濡れているように見え、その字を書いたのはわたしだよ!と今にも叫びそうな顔をしていた。箱にも袋にも見慣れぬ横文字が書かれていてその歪んだ姿はおじいちゃんの揺れる魂そのものに思えた。「嘘をつくとあなたもこんなオウムになってしまうのよ」と僕は母から言い聞かされていた。なんでも、母には嘘つきの弟がいて、嘘をついたのでオウムになっただけではなくて、このようなはく製にされたということだった。「おかあさん。誰がお母さんの弟をはく製にしたん?」「おじいちゃんに決まっているでしょ」「おかあさんも、いつかオウムになってはく製になればいい」といったら、母は何も答えなかった。これでお母が嘘をついていることが分かった。 僕がびくびくしていたのは母親の呼び声ではなく、この嘘つきオウムの叫び声だった。その声は夢の中で何度も聴こえた。「あなたも変わった人ねえ。普通のアルバム写真が横にあるというのに、そんなネガフィルムを見続けるなんて」しかし、僕にはネガフィルムのほうが神秘的な存在であった。僕が初めてカメラのことを理解し始めたのはもちろんその部屋だ。今でもその部屋で見つけた50年前のカメラ雑誌の一部分を切り抜いて持っている。意味がわかるようになるまで持っているのだが、今だによくわかっていない。 「ニエプスが写真術を試みたのを受けて、ダゲールは暗箱カメラに映った像を固定 (化学的再生) する方法を発達させました。1839年、ヨウ化銀と光の反応を知って、ダゲールはヨウ化銀を塗った銅板あるいは銀板の上に銀粒子による像を固定することに成功しました。感光したヨウ化銀は水銀の蒸気をふれさせる事によって現像され、この銀分子の像をチオ硫酸ナトリウムで固定する方法を完成したのです。ダゲールはこの方法を「タゲレオタイプ」と名付けましたがこれが現在の写真術の最初のものとなったのです。」 ネガフィルムを日光写真で焼き付けると最高の品質の写真になり、小学校の友達にそれを見せつけることができた。さらに本棚の引き出しを発掘していると、袋に入った無数のガラス板が出てきたが、それはまさに日光写真にはうってつけの大きさであり、何枚も外に持ち出すことが僕の仕事でもあった。それを母に見つからないように持ち出してはならないことは三つの掟には多分入っていなかった。 事件の前の日も、僕は時を忘れて嘘つきインコとともに暗室で仕事をしていた。だが、天窓が真っ暗になると僕は暗室から出なければならない。僕は掟を破って電気をつけた。すると、天窓には部屋の様子が映し出された。まず、嘘つきオウムの背中が見え始め、次にぽかんと口を開けた僕の間抜け面がこちらを見ている。「口を閉じろ」という父親の声を思い出して僕は何時も慌てて口を閉じたが、口を閉じた顔はいつも誰も見ていなかった。暗くなると暗室の電気を消さなくてはならないというこの家の掟を破ると現れる不思議な風景だ。天窓は鏡となって部屋のすべてを映しだした。そこで、僕は床に寝そべって天窓を眺めることにした。 それは、ちょうど天窓の外から暗室の中をのぞきこんだら見える風景だ。それはおそらく天上の祖父が僕の家族を見ている風景と同じだ。そして、空の上からこの部屋を覗いている自分に感動した。僕は最後にこの世界を消すために暗室の電気を消さなければならない。僕は掟を時々破ることにした。しかし、掟というものは何らかの事故を防止するためにある。単なる規則でも事故を防止できるが、掟はさらに大きな事故を防止するためにある。事故は物語ではない。ある日突然やってくる。小説のようにではなく、俳句のようにやってくる。 その後の人生においても、掟を破るとそれまで見たことのない風景が現れることを少しずつ学んでいった。例えば、といっても人生では最も大切なことかもしれないが、僕は女性というものは男性をひどく嫌っていて逃げ回るものだと思っていた。したがって、僕は絶対に女性を愛さないという掟を自分に課していた。男性は一生のあいだ女性に愛されることはない。それは世界の法則だと思っていた。僕の母はいつも父のことを嫌いだと言っていた。嫌いだから、ずっと家に帰ってこなければよい。もし、よその家のように毎日夫が帰ってくるのなら、自分は決して結婚なんかしない。自分は毎日会わなくてよいから結婚したのだと言っていた。 祖母も同じことを言っていた。男性というものはあのオウムの剥製のようなものだとさえ祖母は言っていた。男性というものは剥製の横で黒い額縁に入り、静かに家庭を見守っているものだ。そして、男性にとっての最高の幸せは空の上から光に包まれた家庭の様子を見守ることだ。ちょうど僕が水槽の中の熱帯魚を覗きこむように。それでこそ男性は尊敬に値する。女性を追いかける男子というものは最低で最も軽蔑される存在だと思っていた。しかし、そのような立派な少年の掟を破って女の子を追いかけて振り向かせてみると、実は女性はそういうものではないことが分かった。女性が逃げ回るのは、実は男性の気を引くためであり、女性というものは男性に捕まることを楽しみに待っていたのだ。僕はすぐに自分に課した掟を廃止することになった。しかし、女性は男性を追っかけないという掟はまだ残っているようだ。 そして、ついにあの日がやってきた。僕が掟を破るとすごい風景が現れた日だ。一瞬にして現れる事件だ。小説のようにではなく俳句のように死は訪れる。その日は海が荒れていた。海峡を風が音を立てて流れて行った。家の下の崖に風が当たる音は怒涛とともに駆け上がってきた。僕は暗室の電気をつけたまま自分の居間に戻ってしまった。同じような嵐の夜、祖父はカムチャッカ沖で貨物船とともに沈んだそうだ。 「お母さん、おじいさんはロシヤの機雷に当たって死んだとおばあちゃんは確か言っていたけど、それは違うみたいだよ。暗室の中の本棚の中には「新徳丸沈没の記録」という小冊子があって、それを読むとおじいさんの船は貨物を積みすぎて嵐の夜に傾いて沈没したと書いているよ」母は「ええ、そうなの」と言っただけで、何の興味も示さなかった。 何時の間にか僕は柔らかな羽根布団の闇の中に顔を埋め、体重を失ってしまっていた。目を開いているつもりであったが、闇しか見えず、何度も目を瞬かせて行き先を見定めようとした。だが見えてくるものと言えば、脈絡もなく浮び上がる記憶の情景ばかり。さまざまな壁紙の模様やら窓の形が現れては遠ざかり、そのまま闇に消えてゆく。 翌朝、大きな音を出した暗室に僕は入って行った。床は血だらけだった。母がいないうちに、床に散らかした本や袋を整理しなければならない。しかし、血のついたまま整理すると僕は完全な犯罪者になってしまう。嘘をついたらオウムにされてはく製になるというのは本当かもしれない。白いオウムは剥製も返り血を浴びて赤い水玉模様のヒルクライマーの僕のように見えた。 部屋の隅で白い鳥が床の上をのたうちまわっていた。二つの翼を広げたまま、何とか立ち上がろうとするが、暴れるたびに首から血が噴き出すので近づくこともできなかった。きらきらと光るガラスの破片があちこちに飛び散っていた。本棚のガラスにもぶち当たったみたいだ。見上げると、天窓から真っ青な風が吹きこんでいた。嵐のあとの青空だ。生き物は人間のようには静かに死なない。あるいは、人間もこんなに激しい姿で死ぬことがあるのだろうか。人も静かに死ぬこともできるし暴れながら死ぬこともできるのだろう。 僕は必死になって血痕の始末を始めた。血はいたるところに飛び散っていて、家具の裏にも血のついた鳥の羽が落ち込んでいるにちがいなかった。ともかく動くものはすべて横に動かして血のついた鳥の羽を拾い集めなければならない。僕は第二の掟と第三の掟を同時に破っていたのだから。 僕は黙って血にまみれたガラスの破片も集め始めた。天井から残りの破片が太陽の光を集めながら落ちてきた。血に染まったものはみな危険な感覚に満ちている。僕は傷ついた鴎を抱き上げた。驚いた鴎は急に元気になって、僕の手から逃れようともがいた。鳥は意外な軽さだった。既に飛んでいる軽さだった。だから、そのまま窓の外に消えていくことには何の不思議もなかった。真っ白な羽の先から血飛沫は球になって飛んだ。だが、それは迷惑なほどには飛ばなかった。海まで落ちると鴎はすぐに動かなくなった。]]>
岬工場
http://glykeria.exblog.jp/33279128/
2024-03-09T17:46:00+09:00
2024-03-22T15:27:03+09:00
2024-03-09T17:46:32+09:00
glykeria
小説
雨の中の厄介な旅行になってしまった。「すみません。こんな大雨の日に乗客は居るのですか」とJR和田岬の出発駅となる兵庫駅で車掌に聞いてみた。「そうですね、いませんね」と車掌は応えて連結部のドアを勢いよく横に引いて前の車両に招き入れた。ドアのすぐそばに頭から大きな黒いマフラーを被った女性が先に座っていて雨をはらっていた。車内にも雨が降っているように見えたが窓ガラスに雨が映っているのかと思った。目を合わすこともなく通り過ぎたが、やがてわたしはそこに戻って彼女と話すにちがいないと思った。車内に降らないと雨は窓ガラスには映らないと気がついたからだ。この世にいない人が乗っている。ちらっと見た女性の顔は、どこか見覚えのある誰かの生まれかわりかと思える顔であった。顔は一瞬だが岬の光に重なり、この半島もどこかで見た半島なのだが、記憶は老化していてバラバラになり、すべては儚い偶然でしかなかった。他に乗客のいない車両はあまりにも寒そうで、しばらくはお互いに見殺しにするために離れた前後の座席を選んでいるように思えた。聞かれてもいないのにわたしは答えた。「僕は岬工場に行きます」それでも何も答えない女性の座席には雨が降り続いていた。和田岬は埋め立ててできた人工島なのに、海峡を埋め立てて運河を残して岬と呼んでいる。つまり和田岬は人工岬ということだ。和田岬線の車内には寒い雨が降っていて、女性がひとり私の前に座って泣いていた。]]>
ライダー
http://glykeria.exblog.jp/33269977/
2024-02-26T21:28:00+09:00
2024-03-09T21:39:10+09:00
2024-02-26T21:28:23+09:00
glykeria
小説
高橋は蛇の木峠のトンネルを出たところで右目の端に黒い石積みのダムを見つけて目が眩み、ハンドルを切り損ねて車体をバウンドさせて横転し、バイクは空中に舞い、何とか自分の身体だけは道路にねじ伏せたが、はっきりと死神を見たのだと仲間に言った。「闇族というとなんだか古代人のように思えるかもしれませんが、超現代人だと思いますよ。我々の見ている風景というのは単なる映像かもしれない。我々はライダーだが見ている風景は虚構のゲームの映像かもしれない。都会の風景というのは動画かもしれない。街はテレビの中の世界のように現実よりも鮮やかで明るくてもう闇なんてどこにも見えてこない」そういう高橋の革ジャンの背中には大きく「闇族」という刺繡が貼りついている。対抗チームの背中にはさらに鮮やかな「薔薇族」という刺繍が貼りついていた。オートレースの周回コースは横にカーブする道というよりは縦横にカーブするアップダウンの坂道だった。ライダーたちがメビウスの輪と呼んでいる危険な山頂道路はサンセット・ロードを真っすぐ進むといつの間にか裏面のサンライズ・ロードに出てしまうのだ。一か所にトンネルがあり、その闇にライダーたちは騙されるというが、そこでは事故は起きたことはなく、別の錯覚で事故は起きている。トンネル以外に一か所視界が切れるところがあるが、魔の坂道と呼ばれる急勾配で登りでは見えていた黒い石積みのダムが下りでは消えて見えなくなるのだ。下りでそのことを確かめようとするライダーは必ず横転するのでよそ見しないことだと言われているが、何人か死んだ奴がいる。運良く死ななくても、そこで転倒するとある後遺症が残るというので、この周回道路はバイクの乗り入れ禁止区間にその後なってしまった。高橋はその不思議な後遺症の最後の犠牲者になった。周回レースでは必ずスタート地点とゴール地点が重なるが、高橋の空間認識の異常というのは走っている間に、そのスタート・ゴール地点が消えてしまうのだ。そのために、放っておくと彼は永遠にメビウスの輪に捕えられたように走り続けるというのだ。しかし、実際はどうだったのかというのは別の話である。元の部族の名前が消えて、後世の人間が勝手に闇族と名付けた話と同様、解説は後から付け加えられるものであり、歴史も作られるものである。実際はどうだったのかは虚構で探るしかない。世界は虚構以外の何物でもないし、あなただって思い通りの虚構を生きていることだし。マスクをしているので通りがかった看護師たちはみな美人に見えた。以前は見えていた彼女たちの白い足はいつの間にか白いズボンで覆われていた。かわりにズボンの中の尻はみな美しく見えるようになっていた。「その坂を上るときには見えないが、下るときにしか見えない石積みの黒いダムがあり、その上には今でも黒い旗が立っている。その昔、闇族といわれる山間に住む部族があり、ひっそりと暮らしていたが、海辺から押し寄せる渡来人の百姓たちが寄ってたかって石を放り込んで谷を埋めてしまい闇族を消してしまった。それでも闇族は石の中に住んでいる。消されたのは本当の村の名前で、闇族というのは後からやってきた百姓がつけた名前らしいのです」「なるほど、上り坂では風景の中で夢を追っていたのに、下り坂では風景に隙間ができて、そこから夢が追ってくるというわけですね。夢を見るのではなくて夢に見られるようになると症状は深刻ですよ。あなたが眼科によらずにこちらにやってきたのは正解です。脳神経外科の検査の後で担当医の雨宮先生から次のように言われた。「あなたの視界には確かに風景の隙間があり、三百六十度あるはずの視界があなたには三百五十六度しかありませんね。残りの四度が死角で、そこから闇が覗いているのです。そこから見える世界はすべて幻覚なので、黒いダムなんてないのです。死角から悪い夢がダムの水のように流れてきていますね。あなたは夢を待っていてはならないんですよ。夢に襲われて魘されるだけですから、夢を狩りに六甲の黒い森に登らなければならないのです」そういって雨宮先生は窓の外の海の見えない山の風景を見た。海からの反射光を浴びて新緑は輝き北の高い空は抜けるように青かった。「わたしの診察はここまでです。結果は精神科の方に送りますので午後からこれをもっていってみてください」と、連絡票を持たされたが、何やら無責任な言い方だった。「行ってみるだけでいいんですか?」と、つい独り言が声になって出てしまった。こんな患者の言い方は当然無視する権利があるかのように背中で「勝手にしろ」と言っているみたいだった。次に出てきた医師の声は患者に対して、決して言ってはならない言葉での筈だった。彼のほうが充分に病んでいるのだ。「あなたが無表情なのは仮面症候群のせいです。化粧しすぎると顔が仮面になってしまうのですよ。つまりあなたは自意識過剰でたえず自分の仮面を意識しているのです」と、高橋を飛び越して横にいる先ほどの看護師の顔を見た。彼女は眼球をぎょろりと動かして見せたが、とんだ濡れ衣だと、私に言いたいことがる表情をした。言いたいことは横の雨宮先生に言えばいいのに、たぶん彼女は彼が嫌いなのだ。連絡票をもって診察室を出たところ、先ほどの看護師が高橋を追ってきた。「ちょっと、お話したいことがあるのですが」と看護師が廊下の隅まで追ってきた。目が合うと話したいことを次のように言いなおした。「ちょっとお見せしたいのですが」と大きめのコロナ対応型の病院内専用だと思われる青いマスクを取って見せた。彼女の裸の顔は濡れていた。「病気というものは、そう簡単には治るものではないのですよ。ほら、わたしの顔はもう乾かないのですよ。もう、マスクを掛けはじめてからずっと、本当の顔は濡れたままなんです」「へえ、お話を聞かないと解らないことが世の中にはいっぱいあって驚きますよ。ぼくはあまり言葉を信じない人間ですが、言葉なんてマスクみたいなものですね。本当のことは言葉を外すといきなり見えてくるもんですね」と高橋は自分のマスクを右手で押さえた。「実は、お見せしたいものは顔だけじゃないのですよ。実は、わたし雨宮さんと関係ができていて、そういうことって、誰にでも話せることじゃなくて、特別な関係がないと話せないようなことなんですけど」高橋はギクッとした。特別な関係は特別な関係の相手にしか話せないということは、そういう関係になれば話さなくてもわかることだということだろうか。彼女の唇は濡れたままだ。口の中から濡れているのだ。「ぼくなんて、あまり言葉を信じない人間で、言葉で考えるのではなくて、躰で考えるほうなんです。言葉がないと考えられないという人もいますが、ぼくは動物に近いライダーなんです。言葉に乗らずにバイクにばかり乗っているものですから、黙ってドライブしていると自分が物質に溶けてゆうのがわかるのです。まるで言葉が液体になって躰を溶かしてゆくみたいです」彼女の眼からは密着したいという祈りが伝わってくる。「わたし、雨宮さんの奥さんには憎まれているから、今、完全に出口のない暗室に閉じ込められているんだけど、誰かにこの苦しみを解ってほしいのです」
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闇族
http://glykeria.exblog.jp/33269966/
2024-02-26T21:15:00+09:00
2024-02-28T09:57:56+09:00
2024-02-26T21:15:29+09:00
glykeria
詩
高橋の革ジャンの背中には大きな闇族という刺繍が貼りついていて、仲間の革ジャンにも薔薇族とかボブキャットの刺繍も貼りついている。奴らはそれらの影法師を背負って突っ走り、影法師がたまらず落車してとぼとぼ歩く姿をみて笑うのだが、黒い石積みのダムが消えるあたりで転倒した革ジャンたちは起き上がった影法師に笑われるのだ。救急車は谷底からやってきて、革ジャンをアスファルトから剥がすと丸めてもと来た道を戻っていく。石積みのダムの開口部を入ると、そこは既に大学付属病院で、院内はすべて黒い手術着の人ばかりだ。高橋の影法師は寝袋のように解かれて革ジャンに戻り、脳神経外科の医師に怒鳴られていた。原因は風景に隙間があるからではなく、あんたの視界に死角があり、三百六十度の世界の四度が欠けていて、三百五十六度の世界に生きているからだ。この石積みの病院が見えなくなるのもそのせいだ。わかったか仮面ライダー。わかったらその仮面を外せ、と隣の看護師を見た。彼女は眼球をぎょろりと回してみせたが、とんだ濡れ衣だ。看護師はちょっとお話したいことがあるのですが、と言ってから、ちょっとお見せしたいものがあるのですが、と言いなおした。病気というものは、そう簡単に治るものではないのですよ。もうマスクを掛けはじめてから、ほら、わたしの顔はもう乾かないのですよ。と、裸のままの濡れた顔を高橋に見せた。閉じた彼女の唇は口の中から濡れている。実は、あの先生とあなたはできているということですよね、と高橋は聞いた。あら、話してもわからないことを、どうしてあなたはお分かりなの。いや、風景の隙間からそれが見えてしまいました、と高橋は笑った。まあ、勘がいいのね。同じ関係にならないと話してもわからないことですわ。と看護師は長い真っ赤な濡れた舌を出して高橋に見せた。 高木敏克
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ジャン・コクトー「恐るべき子供たち」を読む。
http://glykeria.exblog.jp/33258307/
2024-02-12T21:44:00+09:00
2024-02-12T22:42:04+09:00
2024-02-12T21:44:51+09:00
glykeria
評論
子供たちの純粋を象徴するかのある雪の日、死の国からの合図が白い雪球となって、ポールの胸元に届けられる。それを投げたダルジュロスはまるで死神だった。Dargelosは危険な響きを持っている。彼は禁断の実を食べることをそそのかした蛇にも似ていて、ポールに永遠に出かけることを許したようだ。
ポールはそれゆえにダルジュロスを愛するのだ。ちょうどオルフェが死神を愛するように。
エリザベートとポールの姉弟は子供の世界の住人であるが、詩の世界の住人に似ている。
ジェラールとアガートは大人の世界に引越ししたが、非詩的世界の一般人の住人だ。
ダルジュロスはあの世の住人だが、あの世はどちらかいうと子供の世界に近く無垢な親近性を持っている。
子供の国のポールがマヌカンのアガートをダルジュロスと同一視するのはそのためだ。
弟のポールは踏み越えてはならない一線を踏み越えたが姉のエリザベートはそれを許せなかった。
以上は角川文庫の解説で小佐井伸二が書いていることの要約だ。
この小説をゆっくり読んでいけばなるほどと分かってくることかと思われる。
さて、物語は後半で急展開をする。
退場していたダルジュロスが再び入場してくるのだ。
それまでにポールはダルジュロス(男)に似たアガート(女)を愛するようになり、アガートもポールに切ない思いを抱くようになっていた。けれども、二人はお互いに相手に嫌われていると思い込んで苦しんでいた。
エリザベートは二人の愛を仲介するかのように見せかけて、二人の愛を破壊した。
ポールがアガートに書いたラブレターを破り、アガートの気持ちもポールに伝えなかった。それにとどまらず、ジェラールをうまく言いくるめてアガートと結婚させてしまった。
再び現れたダルジュロスはポールの麻薬好きを知っていて、ポールに黒い毒の丸薬を与えてしまう。それをポールが飲んでしまったところでアガートが駆けつけた。
エリザベートが魔法瓶を取りに席を離れている間に、苦しい息の下でポールはアガートと話をして、二人はエリザベートの所行を知った。
戻ってきたエリザベートにポールは「悪魔」とののしった。
エリザベートはポールをアガートに取られたくないのだといった。
ポールが息を引き取るタイミングにあわせて、エリザベートはこめかみに当てたピストルの引き金を引いた。
物語の端緒はダルジュロスの投げた「白い雪玉」物語の終末はダルジュロスにもらった「黒い毒丸薬」。
死神ダルジュロスは物語の始めと終わりにしか出てこない。
ポールが愛したアガートはダルジュロスの化身かもしれなかった。デンジャラスなダルジュロスの影は物語の全体に付きまとっている。
ポールとダルジュロスの愛ばかりでなく、ジェラールもポールを愛している。三角関係の愛の中心は一つではないのだ。ダルジュロスの手に触れたら、雪の球だって九枚の刃のナイフより危険なものになってしまう。あまり好きになるとダルジュロスはポールを殺してしまうのだ。
恐るべき子供たちの関係は恐るべき詩人の関係に似ていると、詩人のあなたは思いませんか?
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半どんの会文化賞
http://glykeria.exblog.jp/33252833/
2024-02-07T14:36:32+09:00
2024-03-06T19:57:07+09:00
2024-02-07T14:44:28+09:00
glykeria
詩
これを機会に更なる努力を積み重ね、生涯の仕事を完成させます。
みなさまありがとうございます。
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白い研究所
http://glykeria.exblog.jp/33237121/
2024-01-29T10:11:00+09:00
2024-03-09T22:59:31+09:00
2024-01-29T10:13:28+09:00
glykeria
小説
「ここは天文台なんかじゃないんです。ただのスポーツセンターなんです」青年の目はかなりの内斜視で、何処を向いているのか分らなかった。「こんにちは。いや、別に僕たちは天文学者でも何でもないですから、ちょっとこの先に行くだけです」「いや、ちょっとだけでも困ります。ただのスポーツ・センターと言っても、高地トレーニングのためにできた研究所ですから中に入るには特別の紹介状がいるんです。それが嫌なら、モルモットになってもらうだけです」「じゃあ、道を教えてください。そうすれば、僕たちはここを通らずに、その道を通って裏に抜けますから」 僕たちの会話をよそに、相棒はどんどんと脇道の方に消えて言った。僕は脇道の方に慌てて走り出したが、筋肉の青年は、「ひゃー」と言う叫び声を上げながら追いかけてきた。それは何とも悲しげな声だった。ようやく僕が相棒に追い付いたところで、追手は諦めたらしく、声がしなくなった。「いやー、参ったな。門の看板をよまなかったのかな。あれはれっきとした病院ですよ」でも、あの時、青年は看板の前に立っていたのだ。]]>
高橋和巳「憂鬱なる党派」を読む。
http://glykeria.exblog.jp/33194520/
2023-12-21T05:56:00+09:00
2023-12-25T13:33:31+09:00
2023-12-21T05:56:49+09:00
glykeria
評論
「憂鬱なる党派」はVIKING、108号(昭和三十四年八月)に第一章、109号に第二章・1、110号に第二章・2・3、111号に第三章、112号に第四章・1・2・・・・・122号に第七章・1。以降中断した。VIKING掲載中はグルーム・パーティとルビが降られていた。パーティーだとすると単数の一つの党であり、日本共産党しか党はない。党派だとすると、複数となり各派全学連のイメージがしてしまう。題名は「憂鬱なる党」とすべきだが、党派としたので、全学連と混同され、読者は全学連や全共闘に広がり出版としては成功した。さらに「憂鬱なる党派」の後に書かれた「わが解体」が民青と全学連との外ゲバともいえる火炎瓶闘争を含む大学バリケードの中での学生と教授会との団交となったので高橋和巳はあたかも全学連党派と全共闘の側の政治的作家として誤解されたのである。結果的には「憂鬱なる党派」という題名は「わが解体」を待ってグルーム・パーティーズとして完成したことになる。この間の作品は「わが解体」1997年・「三度目の敗北」・「死者の視野にある者」・「内ゲバの論理は越えられるか」1970年・と一人称の評論で埋められている。しかし、死については限界がある。それは単純な話で、一人称では自分の死が書けない。私小説では自殺するしかない。それまでの高橋和巳は「悲の器」で所謂三人称の〈私〉を使っている。そこでは作者と主人公の同一視があり、さらに「わが解体」などの評論は一人称小説として読まれてしまう。この人称の混乱と混同によっても「憂鬱なる党派」は政治的な小説と誤って解釈されるが、内容的には「悲の器」につづく「虚無の器」である。 西村の開くことのない「黒いカバン」の中には広島の原爆被害者三十六名の過去の現実が閉じ込められているが、開くと現実は虚構として葬られる。西村の死体の下から出てくる日浦朝子の「預金通帳」は開かれると西村が救われるだけだ。読まれることなく死体とともに燃やされる岡屋敷の「ノート」は西村に渡そうとして岡屋敷の母が息子の葬儀の日に持ってきたものだが別の者が読んでしまう。すべてのものが西村に届かない未了未達がこの作品のテーマだ。それらの「虚無の器」の中が虚無であるのは最後まで永遠に開くことのない闇だからでもある。 妻の高橋たか子によると高橋和巳の文学は次のように語られたそうである。① 夫は観念の世界に没頭し「思考能力と創造能力だけが肥大してしまった大きな子供であり「生身の人間が嫌い」で、自分の想念のみを大切にする自閉に生き続けた。そして彼女は「主人は二十三四歳の頃に虚無僧になりたいと言っていた」「主人の文学は本質的に虚無僧の文学である」と言い切った。② 「学園紛争で主人が行動的であったということは余白の部類に属することであり、これを高橋文学のポイントと思い込んでいる読者があれば大変な間違いである。そのことを私はしつこく何度でも繰り返していいたい」「基本的に妄想文学なのですよ」等という。③ 「素材がしばしば政治の問題に偏るのも、政治こそがまさしく現実の泥沼を形成している元凶だからであり、本来の文学の自由なイメージ操作と異質であればあるほど、距離が遠ければ遠いほど、より貪欲に作中に取り入れられる結果になるわけである」 彼のやけくそなこの文学理念とは裏腹に、実際に彼の文学と思想が表現したものは、万物が四どもえになって背反的に競い合う弁証(アンチノミー)の場であった。彼が学生時代に「俺はジャイナ教徒だ」と触れ歩いたり、虚無僧になりたいと言ったとき、彼の想念には早くも四つどもえのドラマの中で燃焼しつつ、神なき日常世界に下降し、なし崩しに破滅してゆく人間の現像が哀しく映されていたのではないだろうか。山口勲「高橋和巳論」―虚無僧のパトスー それではどうして余白の部類の政治的学園紛争が高橋文学のポイントだと思い込ませる誤解を生じたのか、その原因は「憂鬱なる党派」につづいて書かれた「わが解体」などの評論集にあると前に述べたが、その当時、日本共産党の五十年分裂と呼ばれる主流派(所感派)と反主流派(国際派)との分裂があったが、それは全学連党派の多党分裂と内ゲバとは異次元の革命党本体の大きな分裂であった。「憂鬱なる党派」に出てくる古志原は「査問」で吊るし上げられて後に自殺するが、他の二人はその後も共産党に所属し続けた。反主流派の古在秀光は党から除名されてからも独自に活動を続けていた。再確認するが、「憂鬱なる党派」の党派は日本共産党という一つの党であり、多党派の党派ではない。日本共産党の分裂は共産同や革共同といった党ではない全学連各派とは無関係であるが、この「わが解体」あたりから「憂鬱なる党派」が安易に政治的に解釈され、混乱と混同が生まれた。その結果、高橋和巳の葬儀には二千人をこえる全共闘やそのシンパの学生たちが押し寄せた。「憂鬱なる党派」の革命党の憂鬱は「わが解体」の全学連党派の憂鬱として誤解混同されて引き継がれたのである。しかし、政治的には何も引き継がれていないのが事実である。なぜなら、学園紛争で最初に起こった内ゲバは日本共産党の青年部「民青」と「全学連」との火炎瓶闘争ではじまったからである。お互いに相手からは何も引き継ぎたくない間柄であった。ところが高橋和巳は想念ではなく現実において両者を引き受ける現場に立たされたのである。相いれない学生の主流派と反主流派の対立は「憂鬱なる党派」では傍観できたが、「わが崩壊」では現実が許してはくれなかった。大学教員として高橋和巳は団交などで政治的立場に追い込まれたが、これは高橋の文学とは関係のないことであった。「虚無」の穴の中から時々顔を出して現実の風に当たってはまた「虚無」に戻って書くというわけにはいかなかった。政治は思想の問題としてではなく、現実として高橋和巳に襲いかかってきたのである。「わが解体」心身とものに彼を解体しようとした。 《横手に回ってみると、バリケードの向こうにヘルメットが見え、その前に近寄ろうとする多分民青系の学生や職員に向けて火焔瓶が飛んだ。その時は封鎖解除を要求する学生たちの方は、盾や消火器は持っていたが、特別な武装はしておらず・・・》この話からすると、高橋和巳は全学連の側にはいなかった。《診断しながら医師は断片的にこういった。瞼の下が切れている。眼球破裂。視力はだめでしょうと》《 O『頭が痛い』 医師『脳外科へ行け』 O『入院できますか、まだ手当をするんですか。それとも帰ったほうがいいんですか』 医師『下宿で寝ていろ』 O『明日また来るんですか』医師『ええ、十時半までに』 》 「わが解体」より。おそらく、Oは鉄パイプで目玉を突き刺されたようだ。 以上が「虚無」と「実存」にかかわる小説「憂鬱なる党派」からポイントを外した余白の部類だ。民青も全学連も登場人物には絶対になりえない。しかしながら、この余白の現実の部分が高橋かずみに次の課題を与えているように思える。政治の中にはインテリゲンチャ―もいないし虚無もないように見える。ところが高橋和巳は現実の中に別の自分(一人称)を見つけてしまったのだと思う。この発覚は数多くの三人称のおかげだと思える。 それでは、余白から戻って見る「憂鬱なる党派」にはどうしてこんなに多くの登場人物が必要なのか、というところから、その必然性を考えてみたい。 上巻328ページで「村瀬には近代的労働、つまりは慢性的ニヒリズムに耐える神経の強さが欠けていた」と西村がいうとき、ニヒリズムの置換がある。どうも虚無とニヒリズムがあいまいだが、そのためにインテリの中にある筈のニヒリズムを労働者の中にも見つけたという発言だ。これは一人称の高橋克己のニヒリズムを三人称の労働者の中に見つけてしまった、ということだ。たとえば、淀屋橋のサラリーマンは会社という甲冑を着ていて、兜の中を覗いてみても顔がない。サラリーマンのことを顔なしだ、と言ってしまえば物語ははじまらない。インテリは労働者と違い虚無的で悲観的だといっても物語は始まらない。死の想念に取りつかれて二六時中自殺ばかり考えるしかない死んだニヒリストで終わるしかない。また、ニヒリストだからインテリだともいえない。どんどん自分が消耗するからニヒルになっただけだ。それだけで始まらない話だ。ところが「憂鬱なる党派」の中では次のような革命が起きている。上巻370ページ 《ドストエフスキーが「悪霊」で見事に書き切ったことですが・・・結構悪魔的な陰謀が立てられていて、・・・・その成功失敗の如何にかかわらず人間存在と人間関係の本質なもの露呈するそういう政治に対する問であるわけです》(私の文学を語る)その「本質なもの」とは虚無でありサラリーマンもこの小説の三人称の登場人物も形こそ違えそれぞれの「虚無の器」を抱えたまま生き死んでゆくということだ。それは人間の政治(他者)に投げかけた虚無を、政治(他者)が打ち返してくる返球の虚無でもある。この本質的なものを露呈する悪霊の革命とは言い換えれば異貌の虚無の発覚だ。 作家というものは虚無の中に入って書き、時々「虚無の器」から出て、日の当たる日常に身を晒す。政治というものはそういうチャンスを与えてくれる。(そのチャンスというものは)上巻373ページ 《・・人間がものがわかるときに、自分が過去の経験に照らし合わせてものがわかるだけでなくて、予感的にわかるということもあると思うのです。野間宏さんの作品、椎名麟三さんの作品に、とりわけ初期の人が想念を引きずるより、想念に引きずられたようにのたのたと歩き回っているような一連の作品には、その人たちが覗きこんでいる世界をその横に立って自分も覗いてみたくならせるような誘惑力はもっていたように思うのです》そして高橋克己自身もVIKINGや政治活動の中をのたりのたりと歩き回り、アラジンのランプのように、虚無の中に入ったり出たりしながら様々なたくさんの人を登場させている。しかもその虚無はエリートや作家の虚無と水脈を連ねる虚無なのだ。 次々に三人称の登場人の虚無が浮き上がって見えてくるので、ついには一人称に近い西村の虚無はたくさんの三人称の虚無に飲み込まれてしまう。これが西村の黒いカバンが置き去りにされる理由だ。このような弁証(アンチノミー)が虚無と実存の間で繰り広げられるのが、この小説だと思える。
高木敏克
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白い喫茶店
http://glykeria.exblog.jp/33140569/
2023-11-03T20:30:00+09:00
2024-03-09T22:48:15+09:00
2023-11-03T20:35:27+09:00
glykeria
小説
その日曜日、朝から僕の膝は痛んでいた。半月板の当たりの軟骨がすり減っているのだと思った。それは単なる想像かもしれないが、練習しすぎると軟骨が擦り減り、休養すると軟骨は回復するように思えた。 起き上がって朝日の中で振り返ると僕の影法師は消えていた。嫌な予感がした。友田雄介に何かが起きたに違いない。彼に預けたはずの僕の過去が独り歩きしているのかの知れない。そう思って、僕は彼を呼び出していた。久しぶりにロードワークを休んでしまったある見知らぬ日曜日、僕は海岸通りまでの坂道をゆっくりと歩いておりた。生け垣と石垣がどこまでも続いた。あちこちの庭からは熱帯の匂いを漲らせた海洋植物の花が首を出していた。甘い花の香りの坂道は何処までも続いていたが、曲がりくねっていて行き先は見えなかった。まるで風の通り道のように空の中に消えたり海の中に消えたりする坂道だった。風を追いながら山麓筋のプラタナスのトンネルの中を歩くと落ちてくる光が様々な色に変色していった。すると木漏れ日の中でジョギングをする人の顔がストロボのように閃いた。並木のトンネルを抜けると、大空の下に白い光の海が見えた。不安になって僕は振り向いた。今さっき通ってきたばかりの坂道はまるで知らん顔をしていた。並木のトンネルの奥には誰もいなくて灰色のアスファルトが画面のように見えるばかりであった。坂道の斜面が急勾配で空に向かっていた。灰色の画面の上に何処からともなく黒い鳥が下りてきていたが、並木の中から出たことがないと言われる「見張り鳥」の一種かも知れなかった。 銀白色に輝く港の上空から日曜の太陽は燦燦と金色の光の粉をばらまいていた。南京町の界隈は日曜日になると人も光もお祭騒ぎだった。比較的背の高いK市民の雑踏を抜け、波止場町に出ると光はさらに透明になっていた。税関と海上保安庁の旗の見えるあたりから市街地は既に海の領域で海上都市になっている。 僕が入ったのは青空の下のジャズ喫茶であった。その海辺の建物は山側から見ると白い鯨の形をしていた。鯨が海面から身体を乗りだし、空に向かって何かを伝えようとしているように見えた。最上階の真っ白な地中海風のテラスに座っていると、コルトレーンのスピリチュアルが真っ青な上空から精霊のように降りてきた。これなら夜になると宇宙の中をブルー・トレインの音が走るに違いない。音響は建物の外の漏れるのではなくその半分は真っ直ぐに天に放たれ、残り半分の音は総て海に放たれていた。だから、音楽は海のものでもない。山のものでもない。空のものでもない。海のものでもない。スピーカーは床と床のちょっとしたずれの間に設置され、表面は柔らかな黒土のような素材でカモフラージュされていた。 白い喫茶店で外国人たちの間に挟まれてコーヒーを飲んでいると本当に自由な気持になった。意味の分からない会話や彼らの予想外の行動を眺めているとまるで夢の中にいるよう気分になった。総ては余計なことであり、どうでもよい世界に身を浸しているのであった。まるで絵画のように心がどんどん膨らんでゆくのが解った。今、僕は余計な存在であり、どうでもよい旅人だと思えるのだ。まるで眠っているようだ。でもこの一時の幸福を捉えて、人々はどうして「浪費」だとか「消費」だとか言う言葉を使いたがるのだろうか?僕には解らない。人々は一体何に遠慮してそんな言葉を使いたがるのだろうか?この一瞬は生産に対する消費ではなく、創造に対する仕入れだとは捉えられないのだろうか?どうして個人を消費の主体だとしか考えないのだろうか? 僕はそこで眠るようにして余計な時間と呼ばれるものを楽しんでいた。自転車に長時間乗るのも同じことだと思う。あるいは自転車がそのことを教えてくれたのかもしれない。眠りと夢について人より余計に知りすぎているせいかもしれなかった。人はどうして眠らなければならないのか?人は起きているとしたくもない余計な仕事をさせられるが、眠っていると自分に必要なことしかしなくて済む。だからなるべく眠るように生きることが必要だと僕は思う。眠るように生きることが夢のような人生につながり、そのことを幸せと呼ぶのだ。 白い喫茶店を三階まで登るとテラスになっていて、そこは外国人と哲学的不良学生の溜り場になっていた。風の中の彼らには自分たちの乾いた殻を破ろうとしているような艶やかな肌が覗いていた。アメリカ製缶ビールが彼らの琥珀色の肌をさらに透明にしていた。その傍には決まって不良教師というのがいて、学生に哲学論争を吹っ掛けるのが楽しみみたいだった。自ら友達として学生たちに近付いてゆく教師には、何処となく学生たちから馬鹿にされているところがあった。それもまた親しみの現れであろうが、そのように愛玩される教師には何処か自虐的なところがあった。 日曜日になるとそこにやってくる高校教師・友田雄介にはその他にも目的があった。彼は若者たちの中に小説の素材を捜し続けているのだ。彼はそこでやたらと若い女の子に語りかけ、身の上話や世間話を聞き、小説の素材の中に首を突っ込んでいこうとする。やがて素材は冒険となり、哲学的アバンチュールをドキュメンタリーのように書けたらよいと思っている。でもそんな新しい私小説の世界は滅多に現れなかった。そういう態度なら政治活動をしたのも小説を書くための哲学的アバンチュールだと言われても仕方がないだろう。なんとも他人を馬鹿にした生き方だった。彼の辞書には責任という言葉が抜けていた。だから30歳を過ぎても文学青年と言う呼び方に甘んじていられるのだ。作家志望ならこの年になったら文学は自分の仕事の一部にしっかりと位置付けるべきだ。何時までも仕事と冒険の区別の付かない遊び人だが、もし遊び人でいたいのなら遊び人こそ仕事人以上に才能が必要だ。才能がない場合には楽しくもないだろうが、冒険志望文学志望はただもの欲しそうでみっともない観客にすぎない。彼に逢う時には何時もこういう気持ちでむらむらする。 段々畑のような床を上り詰めると友田雄介は大学生風の四五人と丸いテーブルを囲んでいた。彼は僕に見せるためにそういう席を選んだに違いない。同席の仲間たちは彼に尖った肩を向けていた。それでも彼は懲りずに穴だらけのジーンズに隠され損ねた女子大生の下半身を視線で舐めていた。「恐ろしいのは僕の過去でも君の過去でもない」と言いながら僕は熱帯魚のようなウェイとレスからタイニィ・バブルのカクテル・グラスを受け取っていた。「本当に恐ろしいのは死んだ人間の過去なんだ」音楽がうるさくて何も聞こえないという表情を彼はした。「ほんとうにおそろしいのはしんだにんげんのからだをさわることだ」そう言い直すと、彼に続いて大学生たちも僕の顔を見た。「恐ろしいいことになる前に、君の小説は早く中断した方がよいと思うよ」彼は嫌な顔をした。今さら何を言っているのかと上目使いで僕を見た。「小説の本当の恐ろしさを君はまだよく知らないんだ」またしても僕の声は聞き取れなかった。「かれのかこのほんとうのおそろしさをきみはしらないんだ」何のことだという表情で彼はタバコに火を付けた。「小説の筋書き通りに現実が進行することがよくあるんだ」僕は彼の二の腕を掴んでいた。彼が死に物狂いで身体を引くと僕は黒い塊になって彼についてゆきそうになった。一瞬、僕は闇に変わったように思う。僕は無意識のうちに彼と席を入れ替わろうとしていた。僕は彼と滑らかに入れ替わり、ゆっくりと腰を据えて、居心地よさそうに彼の椅子にも垂れかかっていた。「作家に才能のある場合には気をつけた方がいいと思うんだ。恐ろしいことは作家にだけ起るとは限らない。現に、猫が壁の中に入ってしまって出てこなくなったとか、壁の中からいきなり手が出てきたり、夜になると影法師が起き上がるという現象が起きている」彼は俯いたまま何も言わずに僕の言ったことをノートに書き留めているのだ。「友達だったらもっとはっきりものを言ってくれよ」と彼は言った。「じゃあ、はっきり言うよ。君は最近ぼくの過去の領域に入り込んできているんじゃないかな。君が手を付けてもいいのは山谷繁夫の過去だけだ」「どうもおかしいんだ。山谷繁夫の過去は上手く稼働しないことがある。何処かで操作の手順が抜けているのか、間違いがあるのか?どうもおかしいのだ。あれはどういう訳か何もしないのに勝手に動いてしまうみたいだ。一度、君に動かしてもらおうと思っているのだけれどいいだろうか?最近何度か領域を踏み越えたことがある。このトラブルは意図的なものじゃない。何かの故障なんだ」 そう言って彼がテーブルの上に置いた「時間喪失装置」は何度見ても不思議な形をしていた。右足首と左手首が円筒で繋がっており、円筒にはタイルが張られていたが、よく見るとそれはタイルではなく正方形の鱗であった。彼はそれを大切に牛皮の深い袋に入れていたので、使用しない時はそれは闇のなかで熟睡していた。夢の深さが疲労の深さを語っているようなそれは深い闇のなかから現れてきた。彼がそれを取り出すと、円筒の真ん中が紐で括られているのが分かった。彼は「過去」を取り出すと大切そうにそれには直接触れずに、真ん中の紐の端を掴んで持ち上げた。「過去」は揺れながら二人の目の前にぶら下がり、円筒形を伸縮させながら呼吸をしていた。 やがて、かれはタイル状の鱗を一枚ずつキーボードのように押し始めた。するとそれはちょうど折り畳み式の傘のように円筒形が膨れ始め、中から今まで見えなかった左足首と右手首が現れてくる。シューという音がしている。何処かにコンプレッサーかボンベが仕込まれているに違いない。人形はどんどん成長してゆき最後にポンと首が飛び出した。懐かしい山谷繁夫の顔が現れたのだ。「どうも偽物のような気がする」と友田雄介は言った。
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風景の割れ目
http://glykeria.exblog.jp/33131705/
2023-10-23T21:49:00+09:00
2023-10-23T21:49:42+09:00
2023-10-23T21:37:58+09:00
glykeria
詩
私はあのダムを見過ごしています。山麓線の下り坂では脇見運転は危険だし、あのダムが私の人生に重要な関係を持ちえる訳もない。だからダウンヒルではダムの方角は見ないことにしているのです。しかし谷間の奥に古い大きなダムが見えたのです。そこを何度か通り過ぎるうちに分かってきたのですが、風景はそこで割れていました。真っ黒な石組みのダムのある一点を通過する際にあるのです。それはほんの一瞬の過去でそこを過ぎるともう見えない。そうなると気になるものですよ。だが引き返して近づくとどうしても見えなくなる。下り坂で見えても上り坂では見えなくなるのです。そのダムのことを思い出すとほんとに眠れなくなります。ダムは何かの錯覚で見えるだけで、実際にはそんなところにはダムなんてないのだと思って忘れたくなります。ところが、次の日に同じところにさしかかるとまたちょっと横を振り向きたくなる。やはりダムは幻想でも錯覚でもなく確かにそこに存在しているのです。ある地点からしか見えないものがあるのだと思って道をたずねるように聞くのです。しかし仲間たちはそんなものは見えないといいます。誰の目からも見えるのではなくある特定の人からしか見えないものもあります。客観的に存在するのではなく固有の関係によってしか存在しないこともあるのです。誰にとっても同じ場所というものもないし私にはダウンヒルによってのみ存在する真っ黒な石組みのダムはあるのです。それを見るためにはかなりのスピードで風景を引き裂かなければならないのです。 私は自分に影があることをもう忘れています。しかし自転車に乗ってそのことに気が付くと思わず自分の影法師を振りほどきたくなるのです。影を踏むと相手は怒りますが影を振り切ると相手は泣くのではないかと思って笑ってしまいます。だから真っ黒なダムのある風景の割れ目に近づくと思いっきり加速して背中の影法師を振り落としたいという衝動に私はいつも駆られます。ダウンヒルで振り落とされた私の影法師は靴の脱げた小学生みたいに泣きながら私を追ってくるのだと思うと笑いが止まりません。影法師は自転車の荷台で私にしがみつく弟みたいにうっとうしい存在なのです。いつか振り落として笑ってやろうと私はずっと考えていたのです。この影切りができると私はもっと自由になる。兄弟や家族や友達を完全に置き去りにできると思って私はスピードを上げることだけを考えて走っていたのです。 あなた、大変よ。影がなくなっている。これは死んでいる証拠よ。死んだはずの女房が突然叫んだので目が覚めて須磨浦海岸に出ました。まったく影のなくなった夏の昼下がりの海岸で久しぶりに再会したのは妻ではなく私の影法師でした。サングラスを忘れたので風に吹かれると睫毛が痛い。そこでは何もかもが乾ききるのを待つしかないのです。ずいぶん黒くなったものだ。私が影法師を失ったのとおなじようにやつもわたしを探し続けていたのです。お互いに相手を踏みつけたらどんなに気持ちがよいだろうと思ってここに同じようにやってきたのでした。お互いに相手を踏みつけているだけではそれを見る人はいない。風に乗って遠くの子供の叫び声が聞こえた。「百円拾ろた」すぐ近くで女の声がする。メールじゃなくてリアルじゃないといやよ。
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