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高木敏克のブログです。


by alpaca

発光樹林帯

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                                       髙木敏克


デュセルドルフでは乗務員のストのために余分な一日を過ごすことになった。中途半端な午後をジョギングで過ごしランナーたちと短い対話を楽しんだ。翌朝まで空港横のホテルのラウンジはトランジットの客で混雑していたが最上階のバーでは搭乗員たちが飲んでいた。じっとこちらを見ている女が居る。「あなたが見つめるからよ」と睫毛で信号を送っているので見かえした。いいわよと無言の対話でソファーから腰を上げて部屋まで振り向きつつ不思議な笑い方でついてきた。昼間のジョギングですれ違った女だ。その匂いも覚えている。さらに女はわたしの匂いを求めてするどい鼻先で押してくる。シャワーに向かおうとするとダメだといってふわふわとした肌のにおいをなすりつけてくる。パンストの下はティッシュ一枚だけで露骨な欲望をぬぐいさるように吐き出してきて、わたしの時計を大きく狂わせた。それでもルフトハンザの搭乗員は絵画のように何も狂わない。なんというコントロールだ。さっとドアをあけるとハイヒールの時計のように正確な足音でチクタクと廊下を歩いていった。もうわたしは同じ時刻には戻れない。失われていた記憶が夢となって生きかえるのだから。シャワーを浴び、バスタブの白濁した湯の中に身体を折りたたみ、口で息をしながら石鹸の匂いと女のにおいを嗅ぎわけていた。わたしのさみしすぎるロシアン・ルーレットは一度きりの柔らかな毛の感触だった。それからというもの、三里塚には朝露を浴びた北欧女の金髪が発光しつづけている。

帰国するルフトハンザの飛行機の中では眠るしかない。寝ている間はする事もなく考える事もなく夢見ることもない。胎児のように宇宙の闇に遊泳し続けるだけだ。何も見ない胎児の時には夢など見ることもなく、夢がわたしを見続けるのだと思う。みずから目覚めることもなく機内アナウンスに起こされても、夢の中に目覚めただけで、実は子宮のなかで眠り続けているのかもしれない。わたしは子宮を知る訳ではなく、子宮がわたしを知っているだけで、わたしは子宮に見守られているだけなのだ。このような不思議な感覚は海外旅行の飛行機の中でだけ時々起こる母胎回帰の感覚なのだ。

機内アナウンスに起こされて私にはそこがどこなのか分からない。自ら目覚めることのない者には自ら生まれたとは言えない。わたしは子宮に見られながらある記憶の中に生まれたのだ。もしかしたら、それは他人の記憶かもしれない。生まれたての人間にはまだ自分自身の記憶なんてないはずだから。もし他人の記憶の中に目覚めるのでなかったら、こんなに沢山の夢を見ることは出来ないだろう。わたしは誰かの記憶を遺伝しているのだとしか今のところ思えない。

闇の中から飛行機はゆっくりと成田空港に近づいてゆく。雲海を突き抜けると機体の底を破って発光樹林帯が見えてくる。遠い記憶の底から見えてくる風景ではあるが、やはり深い記憶の中に目覚めてゆくようである。またしても生きてゆくのに邪魔な記憶が五十年前の森から帰ってきたのだ。夢に見られ胎内の底を破りパラシュートと臍の緒も手放して、かつて千葉に墜落したグラマン戦闘機のパイロットのようにママーと叫びながら飛行機から産み落とされるのだ。

「着陸態勢に入ります。もう一度シートベルトをお確かめください」とやかましい声が聞こえてきた。

この声で私はいったん夢から引き戻された。だがルフトハンザ機が雲の海を抜けたとたんに意識の床が抜け、再び眠りに落ち、発光樹林帯が見え、底板が抜けた五右衛門風呂の中で開いてしまった私の口にも白い湯がはいり、夢に落ちながら身体は樹林帯の土壌に突っ込んでいった。夢は記憶の中に目覚めることだと思った。このようにして三里塚での私の闘いは始まった。

土手の上には数人の暗い影が立っていた。反対同盟なのか学生なのか役人なのか、正体は影だけ残して消えていた。人影が夕闇に馴染んで消えそうになっても、シュプレヒコールは円形劇場の窪地に響いている。空港建設反対運動の裏にはもう少し深い裏の意味があった。この空港は単なる民間航空のための国際空港ではない。明らかに巨大な軍事基地の構想がある。民間航空のためなら羽田空港を拡張すれば済む。沖縄が日本列島全体的の防衛基地になるとは考えられない。首都周辺にいつでも瞬時に巨大軍事基地に変わる空港が必要なのだ。空港周辺にはいつでも基地にできる農場や牧場や樹林帯があるこの辺りは専門家なら気がつくはずだ。そのうち羽田空港は民間のために巨大化し始めるだろう。成田空港はますます人気はなくなり、民間航空の路線は次々に羽田に移るだろう。日米安保同盟は黙ってその機会を作って待っているのだろう。われわれの闘いは地下運動になるだろう。全共闘は囮になるだろう。

広大な樹林帯の闇の中から私を迎えるように赤い点が少し揺れながらわずかに近づいてくる。赤いランタンが一人で歩いているようにも見えた。

反対同盟は三里塚に野城を構えて測量技師の侵入を拒むため徹夜で目を凝らしていた。地平線はとっくに消えうせてわれわれ三人は完全な盲目状態で闇に沈んでいた。

発色した赤は隣の村に潜入していた赤いヘルメットだった。白いヘルメットに挨拶を兼ねて連絡業務でやってきたのだ。迎える三人の白いヘルメットは浮き始めていた。

「すごいライトだなあ」と日焼けした学生の赤い顔が笑った。

「赤外線ライトだよ。米軍払い下げを神戸の元町で買ってきた」

それが赤いヘルメットだけを発色させたのだ。

「そのライト、ほんとに赤いんだなあ。その光はとても仲間のものとは思えないなあ」

と彼は間延びした声でいうと頬をさらに赤く輝かせて笑った。

「今日からルポに入るんで、よろしくお願いします」と白いヘルメットで私は答えた。

「ああ、聞いているよ。それで挨拶にきたんだけど、能埼さんの親戚の家に三人で入ったんだよね。ところで能埼さんというのは米兵惨殺事件で戦犯になりかけた人らしいよ」

「大歓迎ですよ。大座敷でスキヤキをご馳走になって三枚重ねの敷布団で寝ました」

「ああ、そうなの。でも、どこの家も風呂の湯を変えないみたいだねえ。茶碗も箸も洗わないし」と赤いヘルメットは笑いながら続けた。

「反対同盟のなかにも空港賛成派が紛れていて敵味方の区別がだんだんと難しくなっている。でも、目を見ると仲間であることは感覚で分かる」

同士はふっと不思議な笑い方で連帯していた。

「しかし、反対同盟の中にも権力闘争が始まり疑心暗鬼の闇の時代が来るのだろうか?」

何かを予感するように津本が言った。彼は何かを見たに違いない。

「ここでは闇を隔離するような都会の衛生観念とは無縁みたいだな。闇の中に裸電球が浮かび、風呂桶は湯気の下に白濁した汗を溜めている。風呂板の下は闇さ」

辻はいつも話をそらす。彼も何かを見たに違いない。

「どうぞごゆっくり」と初めて泊る農家のおばさんは言った。

「ありがとうございます」と僕は裸になってからも白い湯から逃げだすすべを考えていた。

「湯加減はいかがですか」と外の闇から声がした。

「いえ、熱すぎるので、体を洗ってから入ります」

五右衛門風呂には底板が浮いている。洗い場らしきものもない。水道の蛇口はあるので風呂の湯を桶ですくっては水で割る。それを肩に掛けると白い湯は底のない大地の闇に吸い込まれてゆく。フワフワと何万年も堆積した土の闇が宇宙と繋がって、地平遥かに樹林帯を発光させている。湯はまるで羊水のようだ。数百年の記憶の遺伝子が溶けていて、わたしの脳の中に入ろうとしているみたいだ。

反対同盟の城は丘陵地隊の窪みにある。城といってもヤグラ程度であるが、その頭だけを覗かせて測量技師の侵入を見張っていた。夜になり地平線が消え失せて完全な闇に包まれても何か見えるものがある。樹林帯に風が当たると恐竜たちが動きはじめるのだ。窪地の中、旗を振る者、笛を吹く者、その他はジグザグデモで闇の底を這う。最前列では角材を横にして握りあい、それに続く者は腰を抱き腕も巻き踏み締める大地が揺れる。何万年続いただろう。樹林の落葉の堆積をさらに敷き重ねる耕作の土壌は深い。

デモ隊列を組み、途中から機動隊にはさまれて、それでも反対同盟のヤグラが見えるとホッとして、竜舞のようにジグザグデモがはじまった。大地が揺れて深い土の記憶が夢となってわれわれの行進を推し進めていた。

あの時、どさくさに紛れてわたしの耳に後ろから噛み付いた女がいる。ふと咬まれた耳の感覚だけがよみがえった。いったいあれは誰なのか、後ろを振り返っても誰も見えない。これはあきらかに記憶の錯乱という現象で脳に激しいダメージを受けた際に起こる記憶喪失の一種らしい。

辻の話によると、デモ隊列を先導していたわたしに機動隊が襲いかかり、倒れた私を軍靴のような乱闘服で蹴り回していたらしい。それ以来、他人を巻き込んだ記憶の錯乱が続いている。極端な場合には他人の記憶まで思い出すことがある。いろんな夢も見るが、夢とは誰かの記憶の中に目覚めることだと思う。看病する能崎さんの話は枕元で限りなく続いていた。

上空で赤いライトが光っていたが、当時の村人にはその意味が分からない。ただ、上空で赤い光が帯となって流れているのが見えただけだ。編隊による爆撃と機銃掃射の後では目立たない赤だ。

米兵が裏の森に落ちてきた。果樹園の老人と息子夫婦がそれに気づいて死にかけアメリカ陸軍中尉を捕まえて桜の木に縛りつけた。彼の額からは血が流れていたが、それが落下の時の怪我なのかそれ以降のものなのかは誰にも分からない。

パラシュートを追ってきたのは村人だけではない。町からも十名程の男が鎌やら鍬を持って汗を拭きふき米兵の顔を見ようとして集まってきていた。米兵はまだ若くて二十代はじめだろうか。軍服のあちこちが濡れていて特にズボンの股間あたりが黒く滲んでいた。

頭部の出血は眼窩にたまり、瞼は開きそうにないほど腫れていた。

「はやく殺せ」という声もあれば「憲兵を呼んでからにしよう」という声もあったが、

「バカ言え。憲兵が来たら法律の問題になる。どんな時も捕虜を殺せないことになっている」と教官がいった。

「誰が捕虜だと決めるんだ。まだ戦争中だぞ。わしらが戦って何が悪いんだ」と村人が言い、

「殺す事を許されるのは軍人だけだ。われわれは軍人ではないから殺してはだめなんだ」と町の人が言った。

「こいつは爆弾をまき散らして機銃で子供を皆殺しにしようとした鬼だぞ。鬼退治のどこが悪い」と老人が声を震わせていた。

「鬼じゃないでしょ。人間でしょ」と町の人が言い返した。

「戦争とはなあ、国が人間を殺すことで人間が国を殺そうとすると革命になる」と町役場の若い男がいうと、

「すると、こいつはアメリカ国家の一部だが、われわれは日本国の一部ではないと言いたいのか」と村人が声を歪めながら反論してきた。

「憲兵が来る前にパラシュートを燃やしてしまえ。空中でパラシュートが燃えて、落ちてあの岩に頭をぶつけたことにしょう。おい、大きな石を持ってこい。切り傷をつけてはダメだ。大きな石で頭を割ってしまえ」

それから、遠くでママ〜と叫ぶ声がして、その声は遠くへ風のように消えていった。

米兵の亡骸は寺に隣接する無縁仏を土葬するための共同墓地に荒縄で縛られた状態で逆さまに埋められた。その上には彼が履いていた軍靴が備えられていた。

三里塚には催涙ガスが立ち込めて、どこまでも僕たちを追ってきた。

京成電鉄は学生たちの濡れたズボンでびしょびしょになり、連続する客車全部がガス室になり、ワルシャワ労働歌が自然に湧いてきた

乗り合わせた乗客は声も出ないまま泣き続け、子供達は大声で泣いた。


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髙木敏克
高木敏克


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by glykeria | 2020-01-06 21:54 | | Trackback | Comments(0)