カフカ教団(1章〜11章)
2020年 05月 25日
カフカ教団 (1)
髙木敏克
地下鉄海岸線の改札を出ると僕はまっすぐ西に向かって歩いていった。広めの地下道だが、少し天井は低く人を急かせる圧迫感があった。速足で歩くと足音は消えて水面を滑るように進めた。するとピタピタと足音が追ってきたと思ったら、小さな声で「タカギさん」と呼ばれた気がした。あわてて振り向くと、僕の肩ほどの背丈のスーツ姿の男がうつむいて歩いていた。顔全体がマスクにおおわれていて、しょぼくれた目しか見えない。男は目の前を一直線に先回りしてその先で待ち伏せするかのような勢いだ。あるいはこの男は競歩の相手を勝手に選んだだけかもしれない。案の定、小男は十五メートルほど先で少しだけ身体をひねり僕をたしかめた。いや、ひねったのは首だけかもしれない。二度見したことだけはたしかなことだ。そのしょぼくれた目には見覚えがない。でも、たしかに僕の名前を呼んだ。かなり自信に満ちて僕のことを覚えている。罠なのかいたずらなのか、いずれにしろ最初に僕が振り向いたのはまずかったかもしれない。名前を呼ばれて返事をしたようなものだ。あきらかに僕は尾行されていてその罠に引っかかった。それも、びくりと身をふるわせて自分の名前を認めてしまったのだから。そう寒くもないのに僕はコートの襟を立てて顔を伏せた。角を曲がると男は僕を待っているかもしれない。友達のいたずらなら良いが、相手のことを覚えてないと友達は怒るかもしれない。それよりも悲しめ。くだらないいたずらを悲しめ。
僕は「カフカ研究所」という看板をつくっていた。もし、不動産屋で適当な部屋がみつかれば、すぐにでも入り口に掛けられるように、釘の引っかかる穴まであけて新聞紙で包んで持ち歩いていた。ようやく見つけた部屋は事務所からそう遠くはない川沿いの道から路地に曲がるとすぐ右にある。
喫茶店カフカの看板を見つけた時には鳥肌がたった。しかもKAFKAという字しかないので、建物全体を自分のものにしたい気分だった。建物は大きな空をそこだけ切り取るように黒い影になり、そこに入るとどこにでも行けるような港の建物だった。
「喫茶店の名前はカフカなんですよ。ちょっとこちらの立場も考えてくださいよ。オタクのカフカ研究所とちがって、うちのカフカは愛称ですのよ。わかります?カフカにしようか、ポーにしようか迷ったんですけど、ここに来るお客さんが俳句をやっていて、ポーだと韻がおかしくなるっておっしゃったものですからカフカにしたんです。わかります?喫茶店が求めているのは意味じゃなくてイメージなんですよ。俳句の先生もそうおっしゃってたわ。ポーではなんとも怖いイメージがあるし、カフカなら気難しいイメージがある。だから、どちらもやめなさいと俳句の先生はおっしゃったんですけど、決めるのは私でしょ、けいこ先生じゃないわ、といったら、最後にけいこ先生はどういったと思います。
喫茶店Kにしなさいって、わたしはね、誰にもこのお店の名前も経営も取られたくないだけなんです。カフカ研究所だなんて絶対にダメだと思います。いや、ダメなんです。こまります」
カフカ教団(2)
僕は喫茶店カフカの女店主の話を黙って聞いていた。彼女の端正な顔から流れてくる声はどこか変わっていた。その言葉の不思議な香りに僕は引き込まれた。川沿いの倉庫街にこんな静かな空間があることは意外だった。KAFKAの看板がある建物には入り口が二つあった。正面の大きなドアは喫茶店の入り口で、その左の入口には二階と地階に階段がつづいていた。この小さな階段が賃貸用の部屋に通じていることはわかっていた。
「二階のお部屋にはもう人が入っているので、地下のお部屋でお願いしたいのですが」
「ええ、地下室ですか。二階が空いていると思って来たのですが」
「申し訳ないのですが、上の部屋は昨日もう決まりましたの。女性ですし、地下のお部屋で生活ということはちょっと厳しいと思いますので、希望通り二階のお部屋にしていただくことになりましたの」
「それは残念。あきらめるしかないですね」
「あら、あきらめるのは二階だけですか。下のお部屋もご覧になれば。もともとは一階ですから。地震で沈下して地下室に見えますけど」
そう言われながら、地下室を覗くことにした。
「ここでしたら、どんな看板をかけていただいても結構です」
「そらそうでしょ。外から何も見えませんからね。看板をかける意味もないですけど。それに運河のそばだから、やはりじめついていますね。こんなところに地下鉄海岸線が走っているなんて、地下鉄海中線ではないか思いますよ」
「でも、そのために配水は完璧だと聞いています。それに本当の運河はかなり深いところにあるらしいの。あなたの見ているのは川面じゃなくて暗闇の表面だと思いますけど」
確かに町は闇に沈んでいた。地盤沈下で闇がせり上がって来た。時代というものはそういう形で変わっていくのかもしれない。僕はただ他人の記憶の中を生きているのかもしれない。第一、僕は地震なんて見ていないし、深い闇に眠っていたのかもしれない。本当に恐ろしいことは全て忘れている。全てを忘れると言うことも恐ろしいことだ。地震のことを覚えているという人はきっとどこかで笑っている傍観者だと思う。地震で失う物は命や財産かもしれないが、本当に恐ろしいことは記憶を失うということなのだ。僕は何度か死にかけたことがあるが自慢にならない。何も覚えていないからだ。自殺者だって人殺しだって何も覚えていないのかもしれない。だから、お前は自殺したとか、お前は人を殺したと言われても記憶が戻ったわけではない。人の言うことを聞いて納得しているだけだ。もしこの街に本当に地震があったとしたら、彼女も地震のことを忘れているのかもしれない。ただ、人に教えられて地震のことを知っているだけで、本当は自分が生きているのか死んでいるのかわからないはずだ。僕は地震のことを何も覚えていないのだから、死にかけたに違いない。そんなことはテレビでも見ていただろう、と何度も言われてきた。地震後、たしかにテレビで地震のことは傍観していた。しかし、なんども言うが僕は死にかけたことなんて何も覚えていないのだ。僕たちはただ地震後に傍観しているだけで、それがどうして自分の記憶だと言えるのか。記憶の時間を失って、少しは「死」の意味を僕は理解できたと思っている。
カフカ教団 (3)
喫茶店カフカの建物はかなり古い建物でレンガの壁はところどころで穴が開いている。それは僕に似ている。僕の記憶にもところどころに穴が開いていて暗黒を覗き込むことができる。もしかしたら自殺したことがあるかもしれないし、もしかしたら誰かを殺しているかもしれない。そういう時には人間は記憶喪失になるものだ。罪を犯しているのにその罪を覚えていないから永遠に罪を償えない。償いたいからわたしの罪を教えてくださいと城のある村を彷徨う愚かな父親の話はどこか僕に重なって見える。完全な記憶がない限り人間は多かれ少なかれ救われようとして忘れた罪を探しているのだ。なぜなら人間は怖いことは忘れてしまう。抜け落ちた記憶はどこに行ったのか。喫茶店カフカの横のレンガの壁は大きくぶち抜かれて入り口になっている。
「あれは阪神淡路大震災の時に崩れ落ちた穴よ。だけどあの時のことは何も覚えていないのよ。思い出したくないからじゃなくて、本当に覚えてないの。気がついたら生きていたわ」
喫茶店のママはそう言って少し笑った。
「同類です。僕も生きているだけで記憶がなくて地震で誰かを殺した被告人ですよ。被告人は罪を思い出すために永遠に誰かに尋ねようとする。しかし何も悪くない人は話さない」
「あら、二階の住人さんだわ。ご挨拶したら」
二階の住民は僕より一足先に入居した女性で、外出する時にはいつもサングラスをかけている。そのことによって余計に彼女は目立つのだが、素顔を隠す点では成功している。彼女は完全に隠れようとしている。隠れる理由は美しすぎるからだ。彼女が透明人間か闇人間になりたい気持ちは少しわかる。美しすぎると人に見られて何も考えられないからだ。彼女はどこにも隙がないように思える。しかしよく見ると中途半端な微笑みや歩き方にも空きがある。その隙間にうまく絡めば物語が始まるはずだ。これは商売の交渉ごとと同じことだ。どんな建物にも隙間があるように人間に隙間があればどんな小説でも書ける。
喫茶店から二階に登るには地震で壊れた壁の隙間をそのまま改築した入り口のドアを押し広げて階段を登ればよい。僕も毎日使うことになった入り口だが大きな木のドアを開けると上りと下りの階段が続いている。左の階段を登れば彼女の部屋に右の階段を降りて行けばカフカ研究所の看板がぶら下がる僕の部屋に入りことができる。
いつものように彼女は何も言わずに階段を登って自分の部屋に入っていく。しかし、僕には黙って誘っているように見えて仕方がない。この建物の二階に住んでいること自体一緒に住んでいる相手にしか見えない。同じドアから出たり入ったりしているのだから、一緒に住んでいるようにしか見えない。そう見える以上、僕には彼女と一緒に生活できるのは時間の問題だとしか思えない。
「彼女はしばらく休職中らしいわよ。商社にお勤めらしいけど職場でもめごとがあって、被告席に立たされているらしいのよ。なんでも職場の上司の身代わりにさせられて貿易相手から訴えられているらしいわ」
「へえー気の毒だなあ」
「そう思ったら、なんでも相談に乗ってあげなさいよ」
カフカ教団(4)
サングラスを外した女は僕の顔を黙ってしばらく見ていた。どうしたんだろう。二人はどこかで出会っているのだろうか。お互いに何かを忘れて見つめあってしまった。
「どうしたの、お知り合いなの?」とママに聞かれても思い出せない。
彼女が会釈して二階の階段に向かうと「じゃあ、一目惚れでもしたの?」と意地悪く聞かれた。僕は一目惚れというのは忘れていた何かを思い出すことかもしれないと思った。一応「まさか」といったが、女がサングラスをわざわざ外したのは「覚えているでしょ」と言っているように思えた。
街角の隅々がオイルで黒ずんで見えるのは運河のせいかもしれない。道はせまく猫が車の屋根を踏んで通り過ぎていった。そのくせ、喫茶店カフカの建物は中庭がやたらと広くそこに車が中に入りすぎて出られなくなったのを見た。中庭のもう一つの出入り口は運河の船着き場になっていたので行き止まりだった。
アパートの入り口は喫茶店の大きなドアの左側にあった。ドアを開けるといきなり上り階段と下り階段が現れた。そのために入り口に入った人間が上の階に行くのか下の階に行くのか、あるいは喫茶店に入れるのか分からなかった。
次の日の午後、僕がカフカ研究所の看板を持ってドアを開こうとした時のことであった。いきなりドアが開いた。おどろいた女の目がじっとわたしを見ていて離れない。そこまで驚かせてすまないと思ったがあやまる理由はないと思って女の顔を奥までのぞいてしまった。
「タカギさんでしょ。喫茶店のママから聞いているわ。でも、あなたはママから何も聞いていない。あなたか借りることになった地下室というのは私の部屋だったって聞いています?」
「僕は二階の部屋を借りたかったんだけど、もう入居者が決まっているから地下なら空いているということで借りることになったんだけど」
「じゃあ、あなたは二階も使えることにしたら。そのかわり、わたしもあなたの部屋を使うから」
地下室への階段が下に続いている。女は長い髪の毛を額からかき上げて大きな目で何度か私を見上げて「わたしって勘がいいのよ」と言った。女の匂いがふくらんだ。僕は彼女の脇腹に手を回して肉をつかんだ。「あなたも勘がいいのね」と言われて、ストレートにしか話ができなくなった。
「する?」ときいて「いますぐする?」といいなおした。「ええ」ときこえたので僕は彼女の首筋にキスをして腰を抱いたまま斜めになって階段を降りていった。女の匂いは薄闇に漂って沈んでいった。壁がオレンジの電灯に照らされていたがもう一つ水平に差しもむ光があった。
僕を突き放すと女は唇を少し開くとその光に舌が見えた。
「ずっと見ていたのよ。帰りを待っていたわ」と女が言った。自分の匂いが浮くのがわかった。女はそれを吸いとろうとしている。「どこから見ていたの?」と聞くと「二階の窓からよ」と女は笑った。
「じゃあ、二階に行こう。二階の眺めを確かめよう」
「なんだか、初めてあった気がしないね」
「そうね。ずっと待っていた気がするもの。あの運河には暗闇が流れていたでしょ。だからこの部屋は地下室に見えるけど、夜になって、街全体が闇に沈むと、ほら本当の川面が見えてきたでしょ。すると、この部屋が昔は一階だということが分かるわ」と、女は闇を見ながら盲人のように喋った。
どこか似ている男と女の匂いがまじりあって奇妙なほほえみで二人はかさなった。女を包みながらその奥で女に包まれていた。窓の外では夕日をうけて河の流れが時間を喰ってゆく。穴という穴がわたしを沈めようとしている。運河にはいつも同じ水が流れているように見える。
カフカ教団(5)
次の朝、わたしの勤務先の倉庫会社「三幸商会」の入り口には見なれない三人の男が立っていた。誰かを迎えるために立っているのだろう。ぴっちりとしたダークスーツはおそろいで、ネクタイの締め上げ具合からすると相当の地位の人がやってくると思えた。ただ一人だけ長髪の男がいて、ファションモデルと思える長身で、この辺りにはいないタイプだった。近づくと誰もが視線をそらせて不自然にわたしを無視しようとする態度をとった。こちらはもっと相手を無視するように邪魔だなという態度で通り過ぎた。
事務所に入り机に座るとすぐに電話がかかってきた。電話メモを読み返し古い順から返事しなければならないのに、一番遅い相手と話すことになったので、投げやりな声で話しを受けた。
総務から転送される電話は珍しい。
「ご友人だとおっしゃる方からのお電話です。中村さまとおっしゃっています」
「中村はたくさんいるな。下の名前は聞いてないの」
「中村と言えばわかると、おっしゃるので聞いていません」
「会社の名前は・・まあいいからつないで」
「あ、もしもし、タカギさんですよね。大阪府警のナカムラと申します」
「そんな友達はいませんけど、友達とおっしゃいましたよね」
「すみません。捜査第一課とは言えませんからね」
「言ったも同然です。この電話は録音されています」
「じゃあ。掛け直します」
「余計に困ります。用件は」
おそらく、わたしのことは調べがついている。会ったほうが話は早い。最初に言うべきことは決まっている。
「お会いしますけど、条件があります。一回限りならお会いできます。それから、わたしの私生活についてはお話できません。よろしいか」
「はいわかりました。少しお聞きしたいことがあります。あなたのことは何も聞きません。お近くの喫茶店カフカでお待ちしています。
「でも、空いていますか。誰かいたら何も話しませんよ」
「はい、今は誰もいません。さすがに用心深いですね。昔から何も変わっていない」
カフカ教団(6)
喫茶店には先ほどの長身の男が座っていて、僕が入ると立ち上がって窓の外から長髪が見えるようにした。それくらいはわかる。外には何人もいるのだ。
男は大きな封筒から数枚の写真を取り出してテーブルに置いた。
「ただお願いしたいのは、もしご存知なら、この男の名前を教えて欲しいのです。この男です。鉄パイプを握って線路にしゃがみ込んでいるこの男です。お願いしたいのはそれだけです」
「殺人事件があったのですか?もう一枚の写真は死体ですね」
「警察はこの種の事件は公開しないのです」
「それでは何でそんな話を聞かせるのですか。わたしに何を求めているのですか」
「公開できない極秘情報のためです。極秘情報は極秘の存在からしか得られないからです。言っていることをご理解いただけると思うのですが、これは司法取引なんです。だから、わたしは警察官ではないのです。検察官です」
「でも、外にいるのは警察でしょ」
男は返事に困っているのでわたしは勝った気分になった。
「じゃあ、わかりました。こちらから言わせてもらいますが、これはおとり捜査ですね。司法取引で免罪にすると言おうとしているころが第一におかしい。わたしは何の罪も犯していませんから司法取引なんて成立しませんし、写真の男なんて知りませんし、秘密情報なんて持っていません。あなたたちは警察でも検察でもないでしょう。あなたたちが知りたいのはカフカ教団です。わたしをこの建物に閉じ込めてこの教団の不思議な構造を知りたいのです。わかりました。トイレに行ってきますので、逃げないように外からしっかり見張っていてくださいよ」
わたしには彼らが何者かわからない。知りたくもないと言うところが彼らと大きく違うところだ。今はここから逃げることだけを考えれば良い。彼らはそんなに賢くはない。彼らが知りたいのは夜になるとたくさんの人々が集まってくるこの建物と教団についてである。そんなに知りたいのなら、もう少し外堀から攻めれば良いのに、肝心なことを忘れている。地底には大きな海が広がっていることを彼らは知らない。これは彼らにとってはちょっとした穴かもしれないが、我々にとっては大きな穴なのだ。彼らの知的欠点はつまり地底には海が無いという思い込みなのだ。
カフカ教団(7)
地下にある重いドアはまるで風に吸い込まれるようにふわりと開いた。尾行を振り切るのはここだ。彼らは必ずトイレのドアを開けるに違いない。
「あきましたよ」と言ったのは外からドアを開けたカフカ教団の門番だった。
「この先は地下街になっているのでしたか?地下道になっているのでしたか?」
わたしはそう聞きつつ地下道に入るともっと恐ろしいところに通じることはわかっていた。いつものように寂しい風が吹き抜けていた。
「この先は長い地下道です」と門番の男が言った。ドアを叩くような音が鼓膜に響いた。
「開けろ、開けろ。お前の爺さんはなあ、カラフト流れのユダヤということはわかっているのだ。この記憶の悪魔どもめが・・・」
思わず、門番の男と顔を見合わせた。
「なにか、きこえましたか?」
「いや、なにも。たとえ彼らがツルハシでドアを打ち破ったところで、中には真っ暗な土が詰まっているだけですよ」
「うめもどすのですか」
「いや、もともと埋まっているのです」
祖父の記憶によると、この建物は震災の津波と地盤沈下で一階部分が地下に埋まってしまったのだ。そのために一階の大きなドアの裏には土の闇しかないのだ。二階の大窓二つがが一階の入り口に入れ替わり、一つは喫茶店の入り口になり、もう一つの入り口は上階の事務所と地下室に通じている。地下室には大きな暖炉があるが、それはもともと一階にあったものだ。海岸近い湿った土地柄、地階の暖炉は火がつきにくかった。このことは祖父から聞いたわけではない。祖父はわたしが生まれる前にカラフトで死んでしまったのだから。わたしの家系では記憶は遺伝する。記憶は何度も夢の中に現れては研ぎすまされて現実以上の真実になっている。
カフカ教団(8)
門番の鼻は太ったネズミに見えた。
「ところで、その鼻の傷は猫に噛まれた傷ですか」
「どうしてわかるのですか」
「わたしも時々鼻を噛まれるからです」
男はいつまでも笑い、ネズミが踊りだした。
地下通路を進むと天井のむき出しのパイプから水が落ち、白い蝙蝠がぶら下がっていた。蝙蝠は、ほのかな月明かりを受けて鈍く光る青い運河を見ていた。小さな川船が横に揺れながら近づいてきた。深い紫が河口から寂しさを流していた。
いつの間にか水路は川に広さになり、水中にレールが走っているのが見えた。列車がやってくるものとばかり思っていたら、別の川船が数隻つらなってやってきた。
「地震沈下で地下鉄が水に沈んだだけです。そんな驚いた顔はやめてください」持ち場を離れた門番がどこまでもついてきていた。
小船には屋根はなく風に流されているようにも水に流されているようにも見えた。
プラットホームは限りなく続いていた。そのため、誰も降りようとしないのだ。
「どうしてプラットホームには終わりがないのだろうね」
「ここでは、全部が駅だからですよ」
「そうか、駅が道になっているのだね」
流れる船は止まることがなかった。風が風景を絶えず書き直していてレールの平行線は交わることがなかった。海では時間が空間を絶えず書き直しているからだ。
船の中には動かない人影がうずくまっていた。
男はブツブツと何かを言っている。
「困ったことだ。困ったことだ」
と独り言を言っているのだ。
「何かこまっているのですか」
男はしらをきるように向こうを向いた。
「ここで、駅を探してもムダですよ。すべてが駅ですから」
「わかっている。それが問題ではない」と、男は笑いながら鼻をかいていた。
先ほどの鼻を猫に噛まれた男を思い出して探した。門番と入れ替わるように大きな白い猫が白い蝙蝠を口にくわえてついてきていた。
「誰だ、お前は。おい、返事をしろ」とわたしは猫に言った。
「はい」と言おうとして猫は蝙蝠を離してしまった。
すると猫は元の門番に戻ったので二人は黙って歩くことにした。
やがて、二人の前を作業服の男が三人歩いていて行く手をふさいだ。背景が暗いので青い作業服は浮かび上がって見えた。作業員たちは手に長い杖を持ち、その先のスポットライトでプラットホームと水路を交互に照らしていた。
「作業中すみません。山椒魚でもいるのですか」
「地下水脈の調査中です」
男がプラットホームを照らすと中から地下静脈が浮き上がった。
「地下水脈はこの道の下に流れているのですね」
「ここはもともと地上の路地でしたよ。倉庫街の煉瓦塀が地下に沈んで地下道の壁になったのですが、その当時の地下道はまだその下に流れているのです」
カフカ教団(9)
水は時間のように流れていた。今の水も過去の水も同じように流れていたので記憶は消えることがなかった。記憶は埋もれて動かなくなるものだと思っていたけれど、確かに記憶は現在と同じように動いている。闇に埋もれた祖父の記憶までもが生まれ変わってわたしの頭の中に流れはじめている。記憶が何代にもわたって遺伝するのはこの家系の不幸だ。わたしの祖父の記憶はそのままわたしの頭にも流れている。
「ここだ。ここで水脈は止まっています」と水脈調査員の一人が振り返りざまに叫んだ。明らかに彼はわたしを尾行し続けていた男だ。小さな声で「タカギさん」と呼んだ男だ。
わたしはすでに見破っている。事務所の前で、誰かを待っているような顔をしていた三人組も警察だと言ってわたしを喫茶店カフカに呼び出した三人組も水脈調査の三人も同じ人物だ。わたしの絶対的な記憶の不幸な遺伝子はそんなことくらい見破っていたのだ。
「わたしもここだと思います。急に思い出しました。記憶というものは動かないと現れませんね。目的地がここなので急に思い出しました。この辺りに乗り換え駅があって大きなエレベーターがあったはずです」
われわれ一行はどうしたものかと立ち止まった。白い蝙蝠も難を逃れて背泳でついてきていた。
猫に鼻をかまれた門番は、それに気づくと急に機嫌が悪くなった。
「まったく、困ったことだ」
「何が困ったのですか」とわたしは聞いた。
「困ったことがわかったから困っているのです。先ほどの老人はあなたのお爺さんでしょ」嫌な言い方だった。こういう言い方は単なる決めつけだ。
「いや、わたしの祖父はわたしが産まれる前に死んでいるので知りません」
それを聞くと、男は白い蝙蝠に入れ替わり、レンガの壁に飛び込んで消えた。それを追いかけて白い猫もレンガの壁に飛び込んで消えた。
「やはりそうだったのか。奴らも三人組なのか」とわたしは呟くしかなかった。
「わたしも間違えていました。門番は白い猫だと思っていましたから」と水脈調査員も言ったが、大きな白いマスクで顔が消えていて、入れ替わってもわからないだろう。
ともかく、消え残ったわれわれは二人が消えたあたりに近づいた。
「なるほど、ここにも闇のドアがあるのだ」
わたしは、ドンドンとそこをたたいてみた。中から門番の声がした。
「いま開けますから、気をつけてください」と言われて静かにした。
「やはり、門番は先回りするものですね」と、きょとんとした。
「はい、それが門番の仕事ですから」と向こう側から予期せぬ返事がきた。
重いドアが開くと、闇の中に滝が音を立てていた。
「え、エレベーターは何処ですか」
「滝の裏に決まっているじゃあありませんか」
「なるほど、それは水力エレベータですね」
内部は藤色に照明されて、闇に浮かび上がる光の塊になっていた。
カフカ教団(10)
月明かりの街に出ると、目の前に「ティトレリ」という懐かしい赤いネオン文字の看板のプールバーが現れた。ここでわたしは彼女に出会ったのだ。彼女の名前は月子、みんなはルナと呼んでいた。いつまでもわたしを待っているのかもしれない。
バーカウンターは三日月型にバーテンダーを囲んでいた。ルナは少し腰をゆるめた弓なりの姿勢で肘をついていた。その腕で顎を支えて反対の手でグラスを傾けていた。
「やっときたのね。ずっとあなたを待ってたわ」
彼女が背負っているのもわたしと同じ濡れ衣の運命だ。被告人同士、黙って座っているだけでも相手がわかる。同じ悲しみを背負いあっているからだ。
わたしはオロオロしながら地下水道の仲間を探した。彼らは早速にダンスを始めていた。
「まるで、ここから見ていると魂が踊っているみたいに見えるわ。もう、持続不可能な光がこの世から消えようとしているのに、この人間は夜の蜉蝣のように翼を燃やし続けているみたい。わたしも自殺に失敗してから昼蜉蝣から夜蜉蝣になっちゃった。死ぬ希望もなくなったからね。もう、愛とか恋とかいう話はやめてね」
「ずいぶん久しぶりだというのに、相変わらずだな」と、わたしは遠い昔を思い出した。そして、ここはもう記憶の世界なのだと思うと涙がたまらなく落ちて流れた。
「実はね、わたし、裁判所の被告席に座らされたの。背後には会社の上司が座っていて、じっとわたしの背中を見ながらわたしが何をいうか耳をそばだてていたわ。時々会社の弁護士と目配せしながら、わたしが会社の役者として間違わずに決められた台詞を言っているか上司の部長と課長がメモを取っていた。わかります?その紙の音まで聞こえたのよ。わたしをなんとか救わなければという表情をしながら、実はわたしを地獄の底につき落とそうとして会社の弁護士と組んで男二人の罪をこのわたしに身代わりの罰を与えようとしたの」
「その話は前にも聞いたけど、商社の英語の契約書に翻訳者の君がサインさせられた。そしたら、その契約が相手国から訴えられたという話だろ。英語に関して文盲の上司は何も知らないと言って訴えられなかったって話だろ。日本の商社じゃ部長席は責任回避の席なんだ。実はね、僕も被告人でずっと尾行されているみたいだ」
カフカ教団(11)
誰にも聞かれないように彼女の耳元で「好きだよ」と言い、彼女の匂いを吸い込もうとしたら、まったく匂いがない。やはり、もう生きていないみたいだ。彼女は生きた友達とここで飲んでいる。女同士幸せそうな会話が聞こえてくるが、女同士の友情には裏があるという。
「かわいそうに、あの人は自殺したことをすっかり忘れているのよ。一度目に失敗した時も自殺の記憶はきれいに消えていて、家族に教えてもらって、やっと未遂のいきさつを知ったのに、最後に成功した時は誰もいきさつを教えてくれなかったのよね」
僕はこの聞えよがしの二人の女性客のひそひそ話で、彼女の死を確信した。
しかし、相変わらず性格の強いルナは二人連れに言い返していた。
「実は、わたしは眠れなくて、それも永遠に眠れなくて、死ぬこともなく生きることもなく、永遠に水路の中をさまよっているの。それくらい、わかっているでしょ。でもね、もしわたしが死んでいるとしても、もうわたしは悲しくないの、もう死んでいるから。ただ、わたしが現れるところはきわめて狭く限定されていて、この街では地底の海と地底の運河が同じ高さのところだけよ」
「つまり、この地底の運河が海に繋がっている河口ということなのですね」
「そうなの。わたしは特別な船に乗っているわけではなくて、普通に小さな船なの。屋根が半分かけていて、夏も冬もその船で眠ることができるのよ」
彼女と外に出ると二人とも背が高いのでかなり目立った。まるで二人の男が歩いているように彼女も気を使っていたが、彼女のボディラインはかなりくびれていたので、結局目立つしかなかった。二人は何も言わずに地上の運河沿いに西に向かった。懐かしいレンガの
壁に挟まれて二人は久しぶりに腕を組んだ。
やがて、倉庫街が見えてくる。倉庫会社の事務所もレンガ造りが長持ちする。運河は西洋風な景色をはかなく映していた。人々が生きている限りブクブクと日々の泡が立ち、水面で小さな花が裂けると、涙ほどの水滴が空に向かって跳ねるのが見えた。水泡まで生きようとしているのに、彼女が生きようとしないのは死ぬほど悲しかった。
「さあ、もうすぐ、君の好きな喫茶店カフカにつくよ」