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高木敏克のブログです。


by alpaca

泥の青空

高村三郎の小説「泥の青空」は彼が東北から集団就職で東京に出てくる十代からの情況小説である。この情況小説の意味は現実の情況をそのまま小説の中に展開してもう一つの情況を完成してしまうことである。

そこではこの塩漬けの情況が現存から乖離して、不幸なことに時間とともに変化する現実の情況を見えなくしている。その結果、作者は仮構の情況の中でのみ二十年以上も書き続けることになる。

 普通の人間なら状況が変われば、その現時点からまた小説を書きなおすか、虚構を建て直す。しかし、彼が信じているのは長編小説で保存し続ける過去の情況なのだ。

その結果、高村三郎の情況は、今の自分の状況ではなく小説に保存されたもう一つの情況なのだ。つまり、彼は今の自分ではなく過去の自分と延々と二十年以上も語り続けて、冷凍マンモスのような自己史を書き続けたのだ。そのために「泥の青空」は反安保の時代情況においても全く同時代性を感じない小説になってしまった。大学にいなかった彼はこの時代を迂回するかのように別の時間を生きていたのだ。

 彼は、私が大阪文学学校でチューターをしていた時、隣の部屋で同じく小説クラスのチューターをしていたが、クラスが終わると近所の飲み会でテーブルを並べることもあった。私は頻繁に場所を変えて時間に素直に生きてきたつもりだ。だから、私が今ここに書いているのは大過去の情況に遡って書いている自覚がある。

 この情況については倉橋健一氏が二千八年の「樹林」八月号でこう指摘していた。

「もっと、主体的に時代のがわから捨てられるべきだったと私は思う。そのほうが高村三郎にとってもっと時代を視る目を養えただろう」

 この言葉はそっくり現代詩にも当てはまる言葉であり、わざわざ「現代」を被っている現代詩の意味をかみしめることになる。

泥の青空_c0027309_17595022.jpg


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by glykeria | 2020-05-30 17:59 | 評論 | Trackback | Comments(0)