人称と比喩(カフカをめぐって)
2020年 08月 20日
カフカの小説は大きな比喩によって描かれている。
例えば「変身」という作品であるが、これは虫のような私について書いているのか、あるいは私のような虫について書いているのかはとても重大な問題である。
虫のような私について書けば一人称の小説となるが、私のような虫について書けば三人称小説になる。また、「審判」という小説においては、不条理な被告発や差別においては日常生活そのものが裁判のようであると書けば私小説になるが、日常生活のような裁判を書けば詩的な三人称小説になる。つまり、比喩とは三人称なのだ。
一人称小説は日本的な私小説となり、三人称小説はカフカ的な比喩的小説になる。
言い換えれば私小説風の一人称小説には比喩がなく小説は私生活を支配しようとするが、三人称小説では私は解放されて比喩を三人称として支配する。
一人称小説においては作家は私であり私は作品に支配され、三人称小説においては作家は私から乖離して作品を支配する。
具体的には「変身」は虫のような私の一人称から私のような虫の三人称への変身である。そこに蠢いているのは私のような虫である。ここで問題になるのは比喩としての虫は存在し得るが比喩としての私というものは存在しえないということである。
私小説は演技地獄となる。日本に私小説が定着しているのは日本人にとっては日常生活が演技そのものだからである。日本人は殆ど誰もが本音で生きていない。建前を演じながらでないと生きてゆけないからである。このことは本音を演じ切ることによって建前という社会規範を打ちや破ろうとするカフカの創作とは正反対のことになる。日本人の私というものは本音ではなく建前によって初期化されているからである。例えば、島尾敏雄は神戸時代には詩的な比喩的な新しい小説を描いていたが、その後の東京の文壇に移ってからは、道化では済まされない悲惨な私生活を作家的建前で演じる私小説家になった。つまり不幸にならないと売れないという地獄に私小説家は堕ちる。
問題は、日本の文学における詩と小説の水と油のような不思議な分断状況である。小説家は詩を読まず詩人は小説を読まないのではないかと思える同人誌の状況は続いて長い。