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高木敏克のブログです。


by alpaca

雲海

雲海

 山の裏の風景は一面の雲海であった。それは巨大な湖のように動かなかった。

「まるで、湖が死んでいるみたいだ」と、Rは思わずつぶやいていた。

雲の下はこの世ではない、閉じてしまったもう一つの世界だ。雲海の下にはどんな世界が広がっているのか、考えるとたまらない寂しさを覚えた。Rは何度も港の風景と雲海の世界を見比べてみた。

「それにしても、凄い霧ですねえ、これじゃあ何も見えませんよね。何時もこんな具合なんですか?」

 彼は何も答えないまま、しばらく雲海を見つめていた。尖った樹木が何本も首を出していたが、根元は深い霧に覆われていた。

「いや、たいしたことはありませんよ。ただの霧ですから、すぐに晴れますよ。それに、山の裏の世界はそんなに恐れるほど深くないんです。少し降りればすぐに平地ですよ。もしよかったら、ここから降りて、少し遠回りになりますが、電車駅まで歩きませんか?」

「え、本当ですか?こんな谷の底に電車の駅があるのですか?」

Rは半信半疑だった。それでも同じ道を引き返す気持ちにもならず、彼の後について行くことにした。なだらかな草地が続いた。しばらく歩くと、窪地に小さな小川が見えたが、自然のものとは思えなかった。水はたっぷりあったが、殆ど流れていなかった。鏡のように澄み渡った小川は不必要に蛇行していて、樹木の倒立した姿を一面に映し出していた。鏡の中のもう一つの世界は、曲線ハサミでずたずたに切り裂かれているように見えた。

「おかしなものですね」

「何がですか?」

「いや、誰にだってあると思うのですが、この道は自分一人しか知らない道だと思っていた。夢の中に何度も何度も現れて現実以上に確かなものになってしまったというような光景が誰にでもあるでしょう。町の中なら自分しか知らない道なんてないでしょうが、森の中なら、そんな自分だけの道はいくらだってある筈ですよね。町中では自分しか知らないなんて道はない。誰もが知らないとそれは道じゃないんだ。町の中の道が映画の中の道だとしたら、森の中の道は夢の中の道なんですよ。誰も知らないからこそ、限りなく遠くまで一本で繋がるような道があるはずなんです」

「でも、どうしてあなたは夢の管理なんてしょようとしているのですか?同じ夢に戻ろうとするのは、恐らくあなたは無意識のうちに自分の夢を管理しようとしているのです。そして同じ夢に変える度のその不思議な一本の道は延び続けてゆくのです。まるで生き物のように。そうじゃないのですか?管理すれば管理するほど、自由な夢は限りなく膨張し続けるのです。まるで宇宙のようにです」

Rは、その不思議な小川の情景がすっかり気に入ってしまっていた。暗くなるにつれて、霧は消えていった。鮮明な緑色が目に焼きつき、森の空気はますます透明になっていったが、暗くもなっていった。速く森を抜けなければならないと思った。いつのまにかRたちは走り続けていた。道があまりにも曲がりくねっているので、近道をしようとして小川の中も走った。水しぶきが上がり、不思議な雨の音がした。小川の中を走り続けると、やがて大きな暗い谷底に着いた。

「川の中を走ったから良かったんだよ。あの変な道を走っていたら、きっとRたちは迷ってしまったはずだよ。川だから、着実に谷底に向かっていたんだ」

Rは、勝ち誇ったように振り向いて、智子に言った。

「でも、森を出ただけで安心するのは早いわ。もう日は暮れているし、町も村も見えてこないみたいよ。

いくら歩いても、谷底には電車の駅なんかなかった。町もなければ林もなかった。この地方には珍しい不思議な地形に違いなかったが、すでに陽は落ちていて風景は消えていた。

「急に日が暮れてしまったみたいで、殆ど何も見えませんね」

Rは振り向いて彼に言った。暗闇の中に彼の姿は消えていた。

ようやく一本の電柱の光を見つけて、Rたちは足を速めた。光の先にはぼんやりと小さな建物の形が見えた。ごく簡単な板張りの造りで、殆ど窓らしきものさえなかった。大きな木の箱に三角の屋根が付いているだけで、家の形というよりは、家の記号と言った方がいいような簡単な小屋であった。

近づくと電柱は真新しく、赤松の脂の匂いに防腐剤の匂いが混ざっていた。電柱の辺りは少し斜面になっていて、アルミの傘をかぶった裸電球が荒れた草原を照らし出していた。

「この辺は、きっと牧場ですよ。だって、見てください。草の先が、ほら同じ長さに喰いちぎられていますよ」

「え?芝刈り機じゃないんですか?」

「何のためにこんな石だらけの斜面に芝刈り機を入れるんですか?これは動物の食べた跡ですよ。羊か山羊のような根元ぎりぎりまで食べる家畜に違いありませんよ」

女が出てきた。

食事の後で少し散歩しようと言った。

斜面の下の方には大きな闇が広がっていた。

小屋の中は、あちこちがぎしぎしと音を立てた。恐らく釘を打ちつけて作ったからだ。釘を使って組み立てた家は時間と共に釘が浮いてきて、歩く度に釘の表面がいやな音を立てるのだ。

「あら、知らなかったの?あの闇の底には大きな池が広がっているのよ」

「嘘だろ」

「じゃあいいわ。嘘だと思うのなら、一緒に下まで走りましょうよ」

Rはなるべく大きな歩幅で助走しはじめていた。彼女より先に池の水面を見てやろうと思って、足の回転を上げながら、緑の草原を埋め尽くしている真っ暗な闇に向かって突進していった。後ろで彼女の笑う声が聞こえた。

「そんなに速く走ってどうするのよ、何時もあなたはそうなんだから。あなたの後ろ姿を見るのはもう疲れたのよ。あなたって、何時だってそうなんだから。どうして、わたしが待てないの?どうして、そんなに急ぐ理由があるのよ。二人だと何も見えないって言うわけ?一人だけで何かを見ようとしてるのよね。あなたってずるいんだから。

「僕には、一つの確信があるんだ。全速力で走りきることなんだ。そうすれば、僕をお覆っているこの闇のようなものを突き破ることができるんだ。僕には自分の影法師だって、たぶん振りきることができる。影切りって言うんだ。そして、これは闇切りさ」

「やめなさいよ。影なんか切れないわ。闇なんか切れっこないんだから。闇の中は、それはもう単なる無意識の世界なんだから、見なくてもいい悪夢をただ思い出すだけなのよ。それは止めておいた方がいいわ。現実の中ではとうてい解決のできないあなた自身の矛盾は、夢の中の残酷な物語が決着するのよ。きっと、残酷な結末よ。それはあくまで解決じゃなくて決着よ。物語は何も解決しない。それでも決着するのよ。わたし、それが怖いのよ。あなたの物語が本当に怖いのよ。なぜって、あなたが、その物語の決着を見たとしても何も解決されていない。解決されない以上、物語の帰結は現実以上に残酷になっているかもしれない。だから、お願い。そんなに走らないでよ。あなたの、後ろ姿は、もうこれ以上見たくないわ。お願い。帰ってきて」

雲海_c0027309_16500419.jpg



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by glykeria | 2022-05-28 17:59 | 小説 | Trackback | Comments(0)